KORANIKATARU

子らに語る時々日記

なんちゃってセレブの世界


仕事を終えて難波駅で乗り換える。
構内の本屋で桐野夏生さんの「ハピネス」を見かける。
かねてより話題になっていた。
文庫化を機に手に取った。

仕事の難所を乗り越えたところであったので、くつろいだ気分であった。
立ち呑み屋の豊祝の前を通りかかって引き寄せられる。
いまや近鉄難波の憩いの場。
軽く一杯ひっかける。

ほろ酔いとなってホームへ足を向けたとき、顔なじみの医療法人理事長と鉢合わせした。

やあ奇遇と立ち話だけして、手を振って別れた。
夕刻すでにわたしは赤ら顔であった。
引き続き酒席へと誘いたい気持ちは山々であったがあいにくお相手は酒を嗜まない。
すごすごと引き下がるより他なかった。


電車に乗って頁を繰る。
わたしはたちまちのうち「ハピネス」の世界に引きずり込まれていった。

キツネとタヌキの化かし合い。
ママらの世界はまさにそのような様相を帯びている。

あらゆる事柄に暗喩的なコードが付されそれらによってママ界における階級が決まる。

住む場所、夫の職業、実家の素性といった要素によって大きく格付けされ、さらには乗るクルマ、身に付けるもの、子の幼稚園、その他エトセトラエトセトラあらゆる些事によってその立ち位置が検証され続ける。

あらゆるシチュエーションでジャンケンを出し合い勝った負けたを決するような面倒くさいコミュニケーションがそこでは交わされる。
だから、その場のジャンケンに勝つためだけに平気でウソつき偽物にもなり切るような薄気味悪さがその小世間には漂っている。

何も特殊で例外的な世界の一断面というわけではない。
どの街にもありふれ誰にでも思い当たる節のある見慣れた世界と言えるだろう。

女性からすれば自身の置かれた立場を客観視するのにうってつけであり、男性からすればただただ奇妙奇天烈に映っていた「向こう側」の世界の成り立ちについて理解を深めることができる。

そういう意味で実用性に富む標本集と言えるだろう。
本書によってなんちゃってセレブ界の原理と構造が一望できるようになる。

一読後は、彼女らがする浮き浮いた取ってつけたような上品な言い回しや、地に足つかない薄っぺらで幼稚な話の内容や、いかにもインチキでパチモン臭漂うウソ臭い自己顕示などについて、それら上辺の取り繕いがなぜ必要なのか、その切実さのようなものが理解でき、奇異と映った世界を少しは温かい心で見られるようになるに違いない。


なんちゃってセレブ界の組成はどれもこれも似たり寄ったりのものである。
教祖的に君臨するプチセレブ風情はニセセレブかもしれないが、そこにミニセレブが尻尾振って信者となってグループが形成される。

飼い犬がいつしか自らを人だと取り違え、すれ違う犬を犬扱いして見下すような特殊な一体感がそこに醸成される。
その一体感については、人の常、カルト的な風合いを伴うものとなっていくので、よそ者からすれば、そのベースにあるはずの教義は意味不明な類いものにしかみえない。

だからこれらに付き合わされるご主人らはたいへんだ。

なんちゃってセレブ界のなか一応は「エリート」と目される安泰的な立場にご主人らは位置づけられるが、この世知辛いご時世、そんなものは多かれ少なかれ絵に描いた餅のようなものであり、なんちゃってセレブごっこにしても絵空事であるので、現実の過酷と常日頃向き合う男子からすれば出汁に使われるなど呆れて言葉もないような事態である。

しかし、夫たちは長いものには巻かれるのが無難と骨の髄まで心得ているので、とやかくは言わず「ごっこ」に付き合い、求められれば気のない愛想笑いを犬が芸するみたいに繰り返す。


だからこそ、男子にとっても必読の書。
わたしはこの本を、読んどきなと二男に手渡すつもりだ。

下手すれば明日は我が身。
こんな茶番に巻き込まれたらことである。
男子校であればなおさらのこと、女性観を形成する過程でネガティブな側面にも目を塞ぐことはできない。
生態について知っておくことが最大の防御となる。

小説を一気通読したのは、ほんとうに久しぶりのことであった。
たいへん面白く学び多く、とても有用で有意義な読書となった。

続編もあるのだという。
出版の時期が待たれて仕方ない。

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