KORANIKATARU

子らに語る時々日記

見当もつかない全くの闇

大阪梅田で起こった交通事故のニュースがラジオのニュースで流れる。
死者が出たようだ。
十年近く昔の一場面をふと思い出しつつ、阪神高速湾岸線を走る。
海面が巨大な鏡のようになって太陽の光を跳ね返している。

そのときも運転中だった。
ある事業所の先代から着信があった。
直接電話がかかってくるのは珍しいことだった。
あわててクルマを停め折り返した。

急ぎではないという話だったが、何か大事な用件でもあるのかもしれない。
電話を受けて数日後、クルマを走らせ伺った。

約束の時間に到着すると先代は表玄関に立ってわたしを待っていた。
やあ、と先代が笑顔で手を上げる。
促されるまま、事務所を経ず別棟へと連れられた。

誰もいない場所で向き合って座った。

あくまでにこやかな表情であり、柔和な語り口であった。
だから、わたしは先代の話す内容がとっさには理解できなかった。
何を言っているのか全く呑み込めなかった。

後継者に不幸があったということであった。

先代の一人息子であるその後継者とは先だって顔を合わせ言葉を交わしたばかりであった。
バリバリ旺盛に働くその姿がありあり鮮明に浮かぶ。

あまりに突然の話でありすぎた。
亡くなった、という言葉の意味を掴みかねたまま、その意味を探ろうとわたしは先代の表情をぽかんと凝視するだけであった。

密葬を済ませまだ周囲の誰にも知らせていない。
ついては事後的な手続きについてと話が本題に移っていった。

しかし、聞かされたばかりの死という現実は、本題など消し飛ぶ、震えがせり上がってくるような次元の話であり、わたしはそこに置きざりとなったままなかなか本題へ意識を向けられない。

気もそぞろ、若気の私は、ご家族の様子や母親の様子などについて大丈夫でしょうかと話を逆行させてしまうのだった。

突如唐突に振りかかる死というものの恐怖をまざまざと思い知った一場面であった。
その取り返しのつかなさに人はたちうちできず、泣こうが叫ぼうがそれを受け入れるしかない。
受け止めるには重すぎる現実が否応なくのしかかってくる。
これは恐怖以外の何ものでもない。

先代からすれば、一人息子があとを継ぎ余生を気まま楽しもうという矢先の出来事であっただろう。
その無念さは想像の域を絶する。
なんてことなのだ。

以来、死についてはあれやこれやと思い巡らせるが、それが何であるのかいまだもってまったく分からない。
全くの闇。
思考の灯はそのたもとすら照らせない。
何をもってしても届かず、身近にあってあまりに遠い。

だからこそなのか、世は死を解釈する言説に溢れている。
正気で聴けば、畏れを知らぬ妄言の類としか言いようがない代物があってなかには死者を愚弄するようなろくでもないものも珍しくない。

人は死んでいなくなる。
いつ、どこでか、それは全く分からない。
そのような心もとなさだけが、唯一確かなことと言えるのだろう。

だからわたしは死の報せに触れると、その事実に圧倒されてただただ押し黙るしかなくなる。
全く知らない誰かのことであっても、その不在を思い寂しいような気持ちになる。
もし身近な存在であれば場合によっては正気を保てないかもしれない。

死や死者についてはとてもではないがそこら日常の話題のように気楽に語ることはできない。

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