野田阪神近くの商店街。
下町にしてはハイソなスーパーがある。
そこらの店には置いてないような物珍しい品が数多く買物が楽しい。
だからたまに利用する。
この日もぶらり訪れ家に持ち帰る品など物色した。
レジはコンビニみたいな仕様になっている。
カウンターにレジ担当5人が横並びで待機していて、客は5列に並んで順を待つ。
だからどこに並ぶかで当たり外れが生じて待ち時間が左右される。
わたしは買物カゴをぶら下げレジのカウンターに向かった。
ちょうど客のはけたタイミングでどこも列は浅い。
深い読みなど不要の空き具合であった。
適当な列の後ろに並んだ。
列が進んでもう間もなくというところ。
わたしの前の客がレジで細かなことを言い始めた。
家族が買った品を返品したいと言って、購入する品とは別に野菜やらレシートやらを取り出しレジに並べ出したのだった。
単なる返品である。
長丁場に及ぶはずもなく、少し待てば済む話だろう。
とにかくわたしの番はこの次である。
すぐに片付くに違いない。
ところが、雲行きが怪しい。
店員には返品処理の判断ができないようだった。
生鮮食品の場合には上に聞かないと分からないという。
苛々は募るが上の人間に聞くだけなのだからじき終わるだろう。
そう思って余裕然とわたしはひとり微笑を浮かべる。
こんなことでいちいちカリカリしていたら運気も逃げる。
こう見えてきちんと教育を受けた人間である。
温厚で慎み深く社会の一員としての節度もわきまえている。
その間も他の列では次々と客がさばかれ続けていく。
いたってスームズな流れだ。
他の列に移る、という考えもチラとは浮かぶが、そうすればこれまでの苦労が水泡に帰す。
助け舟が出ないかとあたり見回し、他のレジのスタッフにも視線送るが、誰とも目が合わない。
上の人間の判断は待てど暮らせど、なかなか下ってこない。
わたしはそこに滞空しつつ「そのおばさんは後にして先にこっちの会計を済ませてよ」と苦情言うタイミングを見計らう。
しかしわたしの番は次である。
言うが早いか順番来れば気詰まりだ。
そして突如わたしは自らが置かれた痛々しいほど惨めな状況に思い至ることになった。
淀みなく流れるレジの回転の渦のなか、ひとり中年男性が木偶の坊のように突っ立ったまま、待たされている。
木偶の坊は自ら状況を打開できず、周囲の誰にも講じる手立てがない。
皆がその木偶の坊の存在に気づいているが、しかし見て見ぬふりを続けるしかない。
見て見ぬふりされること以上の悲惨はない。
引き続き何人もの客がさっさと会計を済ませわたしより先にどんどん店をあとにしていく。
全員がわたしより後にやってきた者ばかりである。
木偶の坊は悲惨一色に染まり、そこまで至ってようやく前の客の精算が済んで順番が回ってきた。
が、わたしはレジに進み出るのではなく、踵を返した。
紳士然とゆっくりとした足取りで店内をまわって、カゴに入れた品々を元あった場所にひとつずつ戻していった。
その列を選んだ引きの悪さは自己責任ではあるが、いたたまれないような思いとなったことも事実であった。
ここでの買物をキャンセルする。
それがわたしの導き出した最善の答えであった。
わたしたちは列に並んで待つ耐性にかけては世界随一だ。
文部科学省の達成目標がそこにあるといっても過言ではないだろう。
わたしたちは少々のことではへこたれず、少々のことには目をつむり、堪えて堪えて列に並び続けるような時間を平気で過ごす。
それが当たり前であり、上級者にもなればそれをもって讃えられる。
だからこそだろう。
別にそこまで我慢しなくていい、というわたしたちの判断の感度は不具合来すほどに劣化している。
わたしたちのうち大半が、孤立無援の木偶の坊となってさえ自らの不適合から目を逸らし持ちこたえ、そして背を向ける機会を逸してしまうのだ。
忍従だけが解ではない。
背を向けたからこそ得られる幸福もある。
スーパーを後にして清々しく、いったいなぜだろう、その昔、会社を辞めた当時のことをわたしは思い出していた。