タイミングの合う上映館は塚口サンサン劇場のみだった。
元町から三宮まで歩き、阪急電車に乗った。
塚口で降りるとはや薄暮の時刻。
風が強く冷え込みが増していた。
時間まで駅前のパリミキにて眼鏡を選んだ。
いろいろと掛けて外し、そのたび家内があれこれ寸評してくれる。
一人より二人。
生きる単位はその方がいい。
眼鏡屋の一隅にてそう感じた。
気に入ったものをひとつ選んだ。
が、レンズの取り寄せに一週間はかかるとのこと。
映画がまもなく始まるのでまた今度と言ってその場を後にした。
家内と隣り合って座って、数えた。
封切りされてずいぶん月日が経っているからだろう。
観客はわたしたちを含めたったの7人だった。
今回の新作を真っ先に観たのは長男だった。
渋谷の映画館に後輩を伴い鑑賞し、「泣いた、めちゃよかった」とのことだった。
続いて二男は池袋の映画館に友人と連れ立った。
「めっちゃよかった」
二男からのメッセージも長男と同様であった。
彼らが007を見始めたのは、ちびっ子の頃にさかのぼる。
「カジノ・ロワイヤル」が2006年であったから、2021年の「ノー・タイム・トゥ・ダイ」に至るまで、彼らの007歴は15年にもわたることになる。
20歳や18歳の青年からすれば、その生涯を連れ添ったも同然の存在と言えた。
10月のはじめ、家内と観ようと一度予約したが、家で寝過ごし見逃した。
11月終盤になってようやくわたしたちの観る番が巡ってきたのだった。
これまでどおり初っ端から目を奪うシーンの連続で、ぐいぐい力任せに進んでいく007の世界に引き込まれ二時間半があっという間に過ぎた。
最終話の最終盤に描かれる007の決断に触れ、彼らが感動したのも当然だろう。
わたしだって感動し、15年にも及ぶこんな「長編」を息子らと共有できたことに深い喜びを覚えた。
映画館を出ると午後8時を回っていた。
阪急電車で西北まで戻り、駅構内で餃子を買おうと蓬莱の列に並んだ瞬間、電話が鳴った。
長男からだった。
論述の構成を考えていて、電話で喋りながら考えをまとめたいという。
列に並ぶのを家内に代わってもらい、わたしは息子と会話した。
彼の勢いに水を差さぬよう、タクシーのなかでもずっとわたしは息子の話に相槌を打ち続けた。
スパークリングパートナーといよりサンドバッグ。
昇る朝陽に好き放題打たせ、今日はこれくらいにしといたろか、というのが沈む夕陽の役回りなのだった。