ごくたまに公園のベンチに座ってひととき過ごす。
日曜の夜、風が気持ちよく、いつまでもこんな風に当たっていたい、そう思った。
それで駅を出てコンビニで缶ビールを買い、自宅前の公園のベンチに腰を下ろした。
近隣の方々が日をおかず熱心に掃除するので界隈では例を見ないほど清潔な公園である。
手入れ行き届いた庭園といった趣であるから、吹き渡る涼風に贅を感じる。
ビールの味わいも増すというものだ。
夏の到来にはまだ早く、爽やかさを満喫するのに最適な時期とも言えた。
夜陰に佇む木々の緑が風にそよいで、さっき見たばかりの映画のシーンが甦った。
タイトルは『シェイプ・オブ・ウォーター』
何とも切ない映画であった。
主人公イライザが目を覚ますところから映画は始まる。
印象的なのは、お風呂が彼女にとって性的に開放される場であると示すシーンである。
二度もあるので、目を背けようにも見過ごせない。
生々しい場面が幾つもあって一歩間違えればグロテスクな話になりかねないところを、音楽をはじめとした巧みな作りで誰でも見られるような外装となっている。
だからミュートで見れば印象が変わるであろうし、それらしく織り込まれた米ソ対決といった政治的文脈を取り外せば、そこに描かれる本質への理解が早まるだろうと思われる。
主人公イライザは幼い頃に虐待にあったせいで声を失っている。
携わる仕事は清掃。
糞尿や血といった汚物の処理が日常である。
その設定をみれば甘美な話であるはずがないと分かる。
しかも愛する相手は半魚人である。
人型をしてはいるが人間ではない。
それはイライザの性的な空想の産物であるのかもしれず、孤独なイライザの性的な成就がそこにしかなかったというのも痛切だ。
そのような話があまりに美しく描かれているので、その分、内奥に潜む切なさが際立ってくる。
イライザのことを考えやがて思考は人間一般に広がって、わたしにだって半魚人がいて誰の心にも半魚人が息づいている、そんな風に思えてくる。
誰もが切ない何かを抱え持っている。
そんな思いになり何かを慈しむような優しい気持ちにもなるが、やはり切ないという心情をしのぐには至らない。
切なさの度において『ムーンライト』という映画に比肩する。
個人が有する切なさをすくい上げる妙にて昨今の映画の評価は定まるのだろう。
ともに人間理解に欠かせない映画だと思うが、ピンとこない人には全くピンとこず、それで厳粛な思いになるどころか、そのような人にとっては生あくび噛み殺すくらいが関の山なのだろう。
そこが人間の分かれ目だと、こういった映画が問いかけているようにも思える。