奈良では飢えた鹿が県庁に入り込み、シュレッダーの中の紙屑をむさぼり食べていたという。
平板な日常に異変が生じ、所々がわずかに歪む。
些細な変化であるから見過ごして、すぐに見慣れて違和感を覚えない。
緊急事態だとの声に呼応し切迫しても、激変に晒される訳ではない。
だから時を移さず感覚が鈍麻して、脅威の対象がおぼろになって危機感も薄れていく。
今週の金曜と土曜に予定されていた仕事のミーティングが中止になった。
いまのご時世、そうなるのが当たり前。
そんな感覚で予定が次々と変更になり、気づけば当分、人と会って話す機会がほとんどない。
それでも電話やメールで目的自体は遂げられるから暇になることはないが、公私に渡ってただただ引きこもるような時間だけが増えていき、次第、公私の分別も不分明なものになっていくのかもしれない。
いま、まわりにいるのは家族とその他限られた存在だけ。
人間関係の物理的な遮断が自衛となるのは今だけのことなのだろうか。
新型肺炎の感染脅威がきっかけとなって、人間関係が変質し、コミュニケーションの手段が様変わりしていき、それが常態となる。
そんなこともあり得るのかもしれない。
そう思えば、身近な人間という存在の特別感は数倍にも跳ね上がり、その貴重が肌身にしみる。
これまで出合いのほとんどは偶然によってもたらされた。
が、今回のコロナ禍で世界は事細かに分岐して、対人においてのおおらかな無防備さは忌むべきものとなり、結果、出合いのほとんどが用心深い選別を経てなされるものへと様変わりしていく。
もし感染拡大が収束する兆しを見せず事態が長引けば、遠い先、そのようになっても何ら不思議はない。
身近な者が得難い時代。
誰と一緒に生きていくのか。
そんな問いがますます切実なものとなる。
そのように寝床で物思いにふけっていると、二男の帰宅する音が聞こえた。
耳を澄ませる。
キッチンにあがり、冷蔵庫を開け、料理するもの音が耳に届き始めた。
野菜を切って、肉を炒めている。
そんな風に聞こえた。
リビングで仮眠している家内を起こさぬよう、音は至って控え目。
一緒にワインを結構飲んだので、二男の帰りを待っての仮眠であっても家内は簡単には目を覚まさないだろう。
二男の料理する音が優しい子守唄となり、家内の眠りはますます深くなっていく。
もしかしたら夢でも見ているのかもしれない。
登場しているのは草を食むかわいい子鹿ちゃんで決まりだろう。