久々六甲山に登ろうと家内は言うが、息子の食事の世話をしているうちに時計は8時をまわり日差しも強まってきた。
予定変更。
三宮に出て珈琲を飲み明石で寿司でも食べようとなった。
朝10時過ぎ、元町駅に降り立った。
海に向かって歩いて5分、この日神戸を包む空の青と同色のボトルのマークが見えてきた。
エチオピアのフルーティーなコーヒーを二人向かい合って飲み、11時までのひとときを過ごす。
お茶を飲んだ後、旧居留地界隈をぶらつくが、下の下の庶民であるわたしにとってここらは場違い。
開放感溢れたハイソな街並みが息苦しい。
家内の後について歩くが、店のなかでは酸欠さながら息も絶え絶え。
気を失う寸前であった。
昼前になってやっと解放された。
電車に乗って西へと向かう。
陽の光跳ねてまばゆい海が左に開け、青をバックに緑鮮やか輝く山野が右に続く。
こちらの方が遥かにいい。
目指そうと決めた寿司屋の予約は取れず、ここはひとつ新規開拓、未知の店を訪れようと話が決まった。
ネットで目星をつけ予約した。
明石を幾つか過ぎた駅で降り店に向かう。
寿司屋にしては薄暗い。
が、混み合っていて繁盛している風には見える。
途中、引き戸を開けて入ってきた二人客に対し、予約がないと駄目だよと店主はにべもなく、それでわたしたちは当たりの店を引き当てたのだと確信した。
期待を込めて注文したのが上にぎり、そして明石であるからタコ三種握りも同時に頼んだ。
まず上にぎりが運ばれてきた。
上にしてはネタすべてが貧相な血色に見えるが、何事もまずは口にしてからの話だろう。
中央にあるのがどうやらトロ。
夫婦それぞれ口に運んで首を傾げて目が合った。
ゴワゴワした食感。
家内は言った、クジラかも。
おそるおそる店主に聞いた。
真ん中にあった赤い身は何ですか。
店主は言葉に詰まって口ごもる。
代わりに答えたのは横に立つ板さんだった。
「中トロです」
その語尾のトーンはほんの少し下がっているようにも感じられた。
トロと言えば寿司のなかの寿司。
それが食べてわからないなどあってはならないことだった。
まさか、と笑える雰囲気でもなく、ああ、トロですかと消え入るような返事をかえすのが精一杯であった。
わたしたちは押し黙って残りの握りを片付けていった。
どれも寂しいような味わいだった。
それでもさすがに明石。
タコ三種握りだけは美味しいと思えた。
しかし特筆するようなことではなく、明石なのだから当たり前の話だった。
大将が気を遣ってくれたのだろう。
サービスだということでタイのあら煮が出たし、頼んでもないのにスイカ入りのアイスがデザートとしてついてきた。
が、わたしたちの心は一致していた。
早く帰りたいと以心伝心。
スイカだけ一口食べて店を後にした。
口直しが必要だった。
電車に乗って明石に戻った。
空は明るく、街は賑やか華やいで見えた。
魚の棚は活況を呈していた。
明石焼きにいいだこ煮、各種海鮮の天ぷらなどを買い込んだ。
魚屋のおじさん、おばさんらとのやりとりだけでも楽しく、味見する一品一品が美味しかった。
明石に寄って正解だった。
薄暗い寿司屋の記憶が消えるまでさして時間はかからなかった。