われら下々の庶民であってもたまには芦屋を訪れる。
神戸へと向かう道すがら昼を食べるため家内とともに途中下車した。
当初、土山人で蕎麦を食べようと話し合っていたが時間がないため駅に近い天ぷらいわいを選んだ。
芦屋の方々は周辺の民からは芦屋さんと呼び習わされている。
地名に敬称がつくなど芦屋ならではといった話だろう。
そんな芦屋さんに混ざって食べたからか、いわいの天ぷらは雅な味に感じられた。
芦屋から元町までは快速で10分ほど。
神戸の街に降り立って南へと歩く。
まだ時間があったので、大丸神戸のカフェラに寄った。
土曜休日、旧居留地の通りをのんびり歩く人々を眺め、若者らが奏でるバイオリンの音色に耳を傾けた。
暖かな日だまりのなか屋外で飲むカプチーノはことのほか美味しかった。
午後2時過ぎ、席を立ち神戸シネ・リーブルに向かった。
映画『マダムのおかしな晩餐会』のチケットはすでに購入済みだった。
上映される作品の選別に見識あって高尚な雰囲気を醸す映画館である。
館内はほぼ満員。
中央真ん中の席に家内と並んで腰をおろした。
パリの街で夫婦が自転車を漕ぐシーンから映画は始まった。
夫ボブは妻であるアンについていけない。
その出だしのシーンが示唆するとおり、夫婦の足並みは揃っていない。
アンは浪費家で、ボブは破産寸前。
所蔵品である絵を売って窮状をしのがねばならないという背景が見えてくるがアンはそんなことを露とも知らない。
ある日、夫妻が主催し各界の著名人をディナーに招いた。
ボブにとっては絵の売買をつつがなく運ぶための営業の場でもあった。
しかしその日突然、ボブの息子スティーブンが現れて、出席者が13人になってしまう。
これでは不吉。
14人とする数合わせのため、妻アンはメイドのマリアを参加させることにした。
マリアがメイドであることは隠される。
が、その素性を高貴なものと思い込んだ英国の美術コンサルタントであるデビッドが彼女に惚れ込むことになった。
絵空事の素性にひれ伏すところに、そこに集うセレブが有する薄っぺらな価値観への皮肉が込められている。
マリアとデビッドの恋の進展がコミカルに描かれる。
その過程でアンとマリアのあり方が対比されるが、この対比が本作品のテーマとしてひとつの主軸を成す。
着飾って吐いてまで体型を維持し魅力を保とうとするアンは愛と疎遠であって虚しい日々を送り、一方、その対極にあるマリアは、求められ愛され満ち足りる。
このストーリーを、ボブの息子であるスティーブンが書き進める。
つまり、映画自体のなかに書き手がいて、ストーリーの流れはその書き手に委ねられているということがほのめかされる。
すんなりハッピーエンドにしてしまうとあまりに出来すぎた話になって作品として凡庸に堕する。
だから話はそうそううまくは進まない。
マリアへの嫉妬心を抑えきれないアンがデビッドに真実を告げる。
出自を知られたことを境に恋に影差し、マリアは全く相手にされなくなってしまう。
この破局を目の当たりにし、観る者は落胆を隠せない。
が、話はまだまだ終わらない。
カフェでスティーブンがストーリーを執筆しているとき、突如嵐が吹き荒れた。
原稿が風に飛ばされ散り散りとなるが、これは書き手のなかエンディングまでの道筋に混乱が生じていることの含意であろう。
そして映画のラスト間際、恋の当事者でもあるデビッドが現れ、スティーブンにささやく。
人はハッピーエンドが好きなのだ。
その言葉を聞いてスティーブンのなかにあった迷いは吹っ切れ、彼の表情は晴れやかなものとなった。
だから、この後、物語はハッピーエンドへと無事着地するのだろう。
ラストシーンでは、悲嘆にくれ屋敷を一人後にしたマリアの表情に笑顔が兆す。
これは彼女がハッピーエンドを信じることのできる女性であることを物語っている。
ハッピーエンドへと至る下地だけを残して映画は終わり、話の続きは観るものに託される。
一緒に観た者どうしが映画を観終えた後でハッピーエンドについて考え巡らせることになるから、普通のハッピーエンドよりもはるかに彩り豊かなハッピーエンドであると言えるかもしれない。
ハッピーエンドについて自前で考えるよう仕向けられて楽しく、そのほか、下々の存在など意にも介さない非情な階級社会の一端、顕示的な虚飾社会フランスの一面が諧謔的に描かれ、その最も恵まれたセレブの側にあるはずのアンが愛に恵まれないという点に、実に深い問いかけが含まれた映画であった。
映画館を出て、まだ明るい神戸の街を歩く。
家内は子らのことを忘れない。
食材調達が始まった。
大丸の地下で茅乃舎の出汁、三田屋のハム、下村のあなごを買い、地上に出て一貫楼の列に並んで豚まんを買う。
場所を移し、続いては紅茶。
マリアージュフレールで葉の香りを幾つもかいでマルコポーロを選んだ。
そして夜は、この日の目玉イベントであるナイトマーケット。
出店の列に並んでベトナムフォーを買い、トマトのおでんを買い、ビールを買った。
しかし、混み過ぎていてそれ以上の買物は断念せざるを得なかった。
会場の端っこに立食用のテーブルを見つけ家内とそこに陣取って乾杯する。
さすがに食べるものが少な過ぎて物足りない。
ここで家内が機転を利かせ、目と鼻の先にある大丸地下へと走った。
何も屋台で買うことはないのだった。
ワインのボトルとタコやサーモンといった海鮮系の小品、それに中華の惣菜数種を家内が手にして戻ってきた。
夫婦ふたりの団欒に十分な食材が整った。
あたたかな師走の初日、紙コップ傾けワインを飲み、小品をつまむ。
時を追うごと光が増して賑わいも増す神戸の夜を夫婦二人で存分に楽しむことができた。
ほんとうにいろいろありがとう。
そう家内をねぎらって、子らのため作った数々の弁当の写真をスクロールしこれまでの道のりを二人して振り返った。
来る日も来る日も丁寧に地道に、何年にも渡って。
ここまでできる人はそうそういない。
わたしは心からそう思った。
帰りは元町から三宮まで地下街を歩いた。
目を引く飲食店が目白押しで眺めるだけでも楽しい。
途中、ケーニヒスクローネがあってカウンターに腰掛け、二人でアイスを分け合った。
電車でたったの20分。
神戸はいつだって素晴らしい。