KORANIKATARU

子らに語る時々日記

善きものはくすんだ色の光からもたらされる

パソコンに外付けしているHDDには大量の写真が保存されている。

年代ごと地層のように堆積するそれら写真群のなかへときおり分け入っていく。

 

そのたび返す返す思う。

昔々、子らは小さくしかし一貫して逞しく、やんちゃで笑顔が絶えなかった。

 

いまは大きくなって、口数は減り破顔の笑顔を見せる頻度は少なくなったが、相も変わらず屈強頑丈でまだ当分はやんちゃくれ。

 

そして最も驚くのが食事の記録。

子らの成長と軌を一にして堆積しているからその分量たるや膨大である。

 

これまでを振り返れば楽なことばかりではなく、若い時分などむしろ辛く苦しい場面の方が多かったはずだが、食事づくりのレベルは高く保たれ、つまり子らは家内の出力の最善を誕生以来ずっと享受してきたということになる。

 

その時点その時点では分からない。

食事作りが好きなのだろう。

そんな皮相な解釈にとどまって、凝視しない限りその本質の理解には至らない。

 

ざっと20年。

そんな長きに渡って一貫してきたからこそ、わたしのようなバカにでも家内の本質に思い当たることができた。

 

安っぽくて薄っぺら、子どもだましにもほどがある微弱出力で繕った母もどきとは一線も二線も画する。

 

母の愛といったように言葉にすれば簡単であるが実質を伴うためには、そもそも力が必要で、かつ不断の出力が欠かせない。

一瞬であればともかく20年となれば、伊達や酔狂で成せるような生易しいことではなく嘘や虚飾のつけ入る隙もない。

 

そしてその本質こそが普遍に重要で、誰か人を見る際のキーとなる。

 

時に人が発するキラキラこれみよがしな輝きにはたいてい中身が何もないから目をくれる必要はない。

というより、中身がないからキラキラさせているだけの話であって、だからそのキラキラは目くらましのようなものであると言え、わざわざそこに着眼するなど飛んで火に入る夏の虫というものだろう。

 

見ようとすべきなのは、燻べた銀が寡黙に放つような重厚な光沢、地味に地道に磨かれたからこそ渋くくすんだ反キラキラの方であろう。

 

善きものは、そのような一見光っていないような光からこそもたらされる。

膨大な数の食事の写真と子の成長の過程を交互に見渡し、そう確信した。

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2019年9月15日 朝食

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2019年9月14日 朝食

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プレイバック昔の写真 二人が園児だった頃