羽田に向かうため、品川駅で乗り換えた。
空港行きの列車を待ちホームに並んだ。
横を見ると、家族連れの姿があった。
青年が両親を見送りに来ている、そんな風に見えた。
東京で暮らす息子に会って数日一緒に過ごしたのだろう。
息子は笑顔であったが、母は涙ぐんでうつむき、父はじっと黙っていた。
そんな場面に目を注ぐ家内を見て、想像してみた。
もしうちの息子らがここまで見送りにきてくれたら、どうであろう。
うっかり泣いてしまうのだろうか、と思い浮かべた瞬間、目に涙が迫りそうになった。
息子らと会いその背を東京の各地で見送った際、涙のなの字もなかった。
見送る側ではなく、去る側だと泣けるということなのかもしれない。
わたしたち夫婦にとって東京は大阪から遠く隔てられたアナザー・ワールドのようなものである。
パラレルに並び立つその別世界に息子らが暮らし、訪れると実に楽しい。
が、本拠は大阪。
いくら楽しくても去る時が到来する。
去り際、息子らがそばにいればどうしたってその切なさに直面することになる。
涙なしに済ますなど到底無理な話だろう。
乗客トラブルがあって列車の到着が遅れるとのアナウンスが流れた。
ホームに並ぶ人の数は増すばかりであったが、わたしたちはその家族をずっと目で追った。
列車が遅れようと別れの時がまもなくやってくる。
やはり去る側が悲しい。
母の目からは涙がこぼれ、父は涙を必死で堪えていた。
その光景が胸を揺さぶり、わたしたちはもらい泣き寸前であった。
で、気づいた。
うちの息子たちはいつも振り返りもせず、去っていく。
そのとき彼らは去る側で、両親の元を離れるとき、寂しさと無縁な訳がない。
微かうっすらではあっても、ひと雫くらい目に涙のようなものが浮かんでいてもおかしくない。
だから、振り返らない。
今度、息子らに真相を聞いてみようと思う。
絶対に認めないだろうが、少しは寂しい、そう感じているに違いない。