KORANIKATARU

子らに語る時々日記

子ザル時代という大元が束ねられている

この日に備え、月曜、火曜とノンアルで過ごした。

 

水曜の業務を終え体調万全にて北新地へと向かった。

幹事役であるから一番乗りしようと開始時刻より早く店に入ったが、すでに座敷の奥でシマダとシバタが向かい合って座っていた。

 

やはりいくつになっても同級生は同級生である。

ぱっと二人の顔をみた瞬間、子ザル的な稚な心にスイッチが入った。

ああ、楽しい。

 

定刻が近づいて、ハザマ、キヨシ、タコちゃん、スキイチらが続々と現れ、一呼吸おいてミキがやってきて、アキオに続きカネちゃんも登場した。

 

ひとり現れるごと、皆の稚な心が感度良く弾んで、「おお」との無邪気な声が座敷に行き渡った。

そう、この歳になっても。

友だちを前にすればわたしたちは一気に子ザルへと元気いっぱいに逆戻りするのだった。

 

ウエツキが姿を見せたときにはすっかりわたしたちは中学生レベルへと退行し、一次会終了間際、イヌイが滑り込みでやってきたときには彼一人だけが大人という浮いた状態にあった。

 

ではではとそこから歩いて2分の場所へと移動して二次会。

相変わらず話の時間軸が昔から今、そして未来へと目まぐるしく動くが、出発点とも言える子ザル時代の根がしっかり束ねられているから、話が早く、手短で、簡便に済んで楽なことこの上ない。

 

つまり、わたしたちは数語で腹を抱え、数語で言わずもがなと頷き合うのだった。

 

そして、だからこそとわたしは思うのだった。

最期の場所はココかもしれない。

 

もちろん一般的には最期は家族に囲まれて、というのがノーマルな話だろう。

しかしもしかして、たとえば伴侶がそばにいてさえ、心のなかでは終の場所はココ。

そういうことが十分あり得るのではと思ったのだった。

 

おお、と皆に見送られ、以降、まるでその場に居続ける者であるかのように事あるごとに話題にのぼる。

根が束ねられているから、いようがいまいが居場所としてその堅牢さに揺らぎが生じることはあり得ない。

 

われらサレジオの少年たち。

すっかりおっさんと成り果ててしまったが、次回の飲み会は男子だけのクリスマス会というのはどうだろう。

 

今回はやむなく欠席の天六のいんちょあたりが気を利かせ、どっさりプレゼントを抱えたサンタ役を買って出るのではとの予感が働き、子ザルの心はいまからとっても楽しく華やぐのだった。

2023年8月30日 北新地 33期飲み会 一次会「心屋」,二次会「こまつ」