但馬屋と言ってもいろいろあって、梅田にある但馬屋イーマは別格であった。
肉屋で食べる肉はたいていうまい。
が、ここはずば抜けていた。
口の中でふんわりとろけ、そこから全身へと幸福感が広がっていき、二口目以降もその幸は薄れることなく膨らむばかりであるから、食べ続ければ天まで昇ってもはやこちら側に戻ることができなくなってしまう。
が、提供される肉はほぼすべてが数量限定。
その品薄が歯止めとなって、地に足つくギリギリのところで夢と現を行き来するといったことになる。
だから、欧米人らで占められた隣の座敷から聞こえてくる声がやたら艶っぽくなるのも当然であった。
これら肉の旨さは言語化できる観念の域を超え、感じることができるだけのものであるから、口数は増えても発せられる単語は数語に限られ、ついにはうーとかあーといった嘆息に行き着いた。
当初聞こえていた英語もだんだんその体を成さなくなり、どこの国の人が何語を話しているのか不分明となって、つまり、肉によって壁一枚向こうに前言語の世界が現出したのだった。
もしここが焼肉屋でなければ、隣人が一体何をやっているのかちょっと見当つき難く、え、まさかといった生々しいような、いかがわしいような想像を巡らすことになったかもしれない。
そして座敷のこちら側でも同じ話であった。
わたしの前に置かれたワイングラスとシャンパングラスとビールのグラスは飲めども飲めども、その先から注がれるので空になることなく常になみなみと溢れており、肉を頬張っては、うーとかあーとか言うのであるから、わたし自身も例外ではなく、喜悦に惚ける猿同然といった有様であった。
そのような二時間を経ていたので、だから二次会については、記憶もおぼろ。
うっすらとそこだけ明るく心に灯る遠い思い出のよう。
心地よい退行のなか、日常を縛る言語の世界がいったんすべて解除され、その空洞に刻印された淡い光は純度高くことのほか温かいものに感じられた。