四柱推命によって運命が明らかとなる。
だから他人に対し誕生日をそう簡単には教えない。
中国ではそれが常識なのだという。
わたしについて言えば、四柱推命でみてもらった運命が「花咲き乱れる人生」とのことであるから隠す必要もないだろう。
しかし、いつになったらそうなるのか。
待てど暮らせど、そんな兆しはどこにもない。
誕生日と言ったところで、特別なことなど何もない。
が、それなりに何か語るとすれば、伝える相手は息子ということになる。
日々平穏に暮らし今に至って十分に幸せである。
あとは息子たちが、胸を張って自信満々、充実の日々を積み上げてくれたらそれ以上望むようなことなど何もない。
若い頃、わたしは自分自身を取り違え、いま思えばずいぶんな遠回りをしてしまった。
遠回り自体はそれが人生の本質だと言えるかもしれないから仕方ないにせよ、不本意な道行きを雌伏して過ごすような時間は、はなはだ辛いものであった。
インナー世間に照らせば正しいはずであっても、「なんかちゃう」という状況なのであれば、実のところ自尊心は保ち難い。
ささやかであっても「これでいい」という手応えがあってこそ、自尊心にあたたか照らされ心おだやかに毎日を過ごすことができる。
世にいう氷河期世代については彼らが甘受しなければならない経済的不遇が取り沙汰されるが、より深刻なのは自尊心を保ち得ない人生を彼らが余儀なくされかねないことであろうと、わたしなどは思う。
無理して背伸びせずとも手が届く。
というより、等身大の自尊心を開く鍵は、生まれたときにはすでに手の中にあった、という気がする。
誕生日を知ることで運命が明らかとなる。
その真偽はさておき、その日生まれ出た自分というものが一体何なのか、何であればいいのか。
それを知ろうとする方が、世間の声に耳を傾けるよりはるかに幸福への早道であるのは確かなことだろう。