最初に存在したのは母親であり、その傍らに父親がいた。
息子にとって最初の人間関係はこの二人に限られた。
ずっと母親がそばにいて、夜になると父親が帰ってくる。
そのように二人だけに囲まれるような日常が続き、いつしかその人数が膨れ上がっていった。
その背景にはわたしたちという親の存在があった。
よい環境で育てようと住む場所を選び、中学受験を薦め短期留学へと背中を押し、そして大学受験の際には先々のことを考えて東京を推した。
指し示した方向で首尾よく息子の人間関係が形成されていったから、わたしたち親は子どもにとって社会へと通じる窓みたいな存在だったとも言えるだろう。
先日の三連休、結局長男とは食事する機会が得られなかった。
生まれて最初の人間関係が後回しになるほど、彼の人間関係はいま急激にその膨らみを増しているのだった。
日頃から様々な人と関わり、その範囲は国内に留まらない。
三連休となればその多彩な関わりも小休止となるが、それでも人との交流が止むことはなく、初日に会社の仲間と集まって、二日目は中高の友人らと遊び、最終日は大学の仲間とBBQなどして過ごすといったように休日であっても何やかやと忙しいといったことになる。
仕事して合間合間に勉強もしてカラダを鍛え、人とちゃんと付き合う。
同じ歳の頃、誰とも会わずに休日を過ごすことも珍しくなかったわたしとは大違いであり、わたしという出来損ないの欠陥が一世代を経て修復を見たようなものであるから、なんだかとてもほっとする。
そしてだからなおさら息子からの他愛のないような日々の便りが愛おしい。
つまり気づけばいつしか息子がわたしたちの窓になっているということである。
そこから見える景色がとても興味深く楽しく、ずっと見ていて夫婦で飽きることがない。