KORANIKATARU

子らに語る時々日記

ウソをつく度、小さく傷つく

朝早かったから、家内が作る弁当を持たずに出かけた。

 

昼に何を食べたのか。

午後、家内から連絡があった。

 

コンビニ弁当だとは言えず、ざる蕎麦だとわたしは咄嗟にウソをついた。

 

そんな些細なウソであれ心が乱れる。

嫌な気分が波紋となって身中に広がっていった。

 

やはり虚言はカラダに障る。

 

が、コンビニ弁当だと言えば怒られる。

嘘も方便、の側に与することも時にやむなしなのだった。

 

夜、業務で遅くなった。

軽く食べて帰る。

そう連絡すると、幸いこの日は大目に見てくれた。

 

それでひさびさ正宗屋に寄ってから帰ったのであるが、締めに焼きそばを食べたなど口が裂けても明かせない。

 

帰宅しリビングを通り過ぎるとき、つまみは刺し身とおでんだけだとわたしはウソをつき、おのずと歩みは早足になった。

 

つくづく思う。

平気でウソをつく人の気がしれない。

 

きっと痛みを感じるセンサーが欠落しているのだろう。

だからブレーキがきかず、躊躇いなくウソを垂れ流すということになる。

 

ある人のことが頭に浮かんだ。

 

どこそこで働いていた。

ウソである。

どこそこに留学していた。

それもウソ。

 

学歴もウソなら実家の生業もウソ。

夫婦の出会いの場面もウソだし、若くして見初められたとの話にするため結婚年数もウソ。

もちろんブランドの持ち物も偽物だから全部ウソ。

 

そこまでウソで塗り固めれば、それで雁字搦め。

えらく窮屈なのではと案じたくなるが、それで心が満たされるようである。

 

真実の価値を毀損する。

そんな呵責が生じる訳もなく、誰にも迷惑をかけていないと夢見るようにウソが自給自足され、ウソが豊かに咲き乱れていく。

 

が、そこまでいくと周囲は気づく。

 

サイコパスだと後ろ指をさされ、本人だけが気づかない。

知性あるセレブを演じているつもりが、実は出し物は小ウソ芸。

ある種のお笑い芸人のような扱いになっていて、その乖離が痛々しい。

 

人間社会のなか一定の位置を占めるためにもやはり、正常な感覚が欠かせない。

バレないと高を括ったところでバレるのだから、そこに痛みを伴う方がはるかにいい。

 

で、改めてわたしは気付いた。

わたしのウソも薄々は女房にバレている。

 

かといって、開き直って全部本当のことを言うのも配慮に欠ける。

 

ウソをついたあと、口を真一文字にキッと結んで痛みに耐える。

それもまた女房の気持ちをいたわる愛情と言えるだろう。

2024年6月4日昼 たまには事務所でコンビニ食

2024年6月4日夜 立花 正宗屋