金曜の夜、仕事で遅くなったので帰途うどん屋に立ち寄った。
ちょうど支払いをしているおじさんがいて、男子店員に噛みついていた。
くたびれたスーツを着て、定年後のいま閑職にある、といった風に見えた。
なにか気に食わないところがあったのだろう。
出汁がどうのこうのとネチネチ文句を言って、かなりしつこい。
男子店員は耳を貸さず、相手にしないよう努めていた。
反応すれば、つけ上がる。
正しい対応だと思った。
散々毒を吐いて店を出るとき、おじさんは店内に向け言い放った。
「二度と来ない」
それを聞いてわたしは笑った。
そのおじさんが一人来なくなったところで、痛くも痒くもないだろう。
が、店員たちの表情は沈痛だった。
あんなどうでもいいようなおじさんのクレームであっても当事者は痛みを感じる。
そう察せられた。
しかし我が身に引き寄せてみれば当然のことだと分かる。
わたしだってクレームが寄せられれば縮こまる。
痛くも痒くもない。
部外者の身勝手な思い込みでしかないのだった。
うどんを待ちつつ、わたしはその痛みについて考えた。
たとえば疲労感が失われると困ったことになりかねない。
そのまま突っ走れば過労死に至る。
が、クレームで受ける痛みについては、これはなくても構わないのではないだろうか。
おそらくは原始的な生存欲に端を発する疎外や孤立を恐怖しての痛みであって、いまそれで生命の危機に晒されることはあり得ないから、痛み自体が過剰反応だと言っていい。
その痛みを消去、せめて軽減できればどれだけいいだろう。
で、店に入った出だしに戻ってわたしは思ったのだった。
部外者になればいいのでは。
対峙する現場に抜け殻だけを残し、わたし自身ははるか上空へと浮上して、人類一般の出来事をまるで観察するかのごとく事の推移をただただ眺める。
話のネタにでもなればしめたもの。
そんな構図で臨めば、痛くも痒くもないはずだ。
これは名案だと思ったところで、大昔の記憶が眼前に蘇った。
あれは大学4年のときのこと。
毎週ゼミがあって、毎回毎回憂鬱で仕方がなかった。
なにしろ口を開けば内容の稚拙をどやされあげつらわれ教員らに滅多打ちにされた。
ある朝、玄関を出るときわたしは夢想した。
ゼミの場にあって、わたしはそこにはいない。
はるか彼方、地球を眺めるような場所にいて、わたしの目には誰か他人の営為が映り込むだけ。
その場にいながらわたしは現場を留守にしているのだから教員らからの圧迫を感じようがない。
もちろんそんな夢想は木っ端微塵に粉砕された。
一喝されて一気にわたしは現場へと引き摺り戻され、冷や汗たらたら半べそ浮かべしどろもどろとなる実に苦しい時間を余儀なくされた。
何を想おうとカラダという実在はいともたやすく、うっふんあっはん、そのようにリアルに反応してしまうのだった。
痛みに対しては、打つ手なし。
わたしはうどんをすすりながら悟る他なかった。
生きて在ることに付随する現象であると諦めて、それをも呑み込んでやっていくしかない。