数年前に上の息子さんが現役で東京大学に合格し、このたび下の娘さんも現役で京都大学に合格した。
28期の大先輩からお子さんの近況を伺い、その話をさも当たり前のことのように受け止めている自分に気づいた。
大阪星光の交流のなかに身を置いていると何かが麻痺する。
視覚化するなら正規分布のかなり右端。
そんな場所が世間一般となってしまうから、普通の感覚からかけ離れ、お相手を二度見して驚くべきような話に「ああ、そうなんですか」と簡素な相槌を返してしまい、お相手も「そうなんですよ」とやりとりは至って平板なものとなる。
どさくさに紛れてわたしはその世間に身を置いているが、元をただせば正規分布の左側を深く分け入った場に出自を有する身。
だから一瞬後、その奇異に気がつくことができたのだった。
東大京大の兄妹。
普通ではない。
五十有余年生きてきて近所でそんな話を耳にしたことなどない。
身内を縦に横にと探し回っても、それに近接するような話さえ全く聞かない。
特異な話がさも普通の顔をして転がっている。
つまりこの世間はかなり特殊な場所と言え、ああ、なるほど。
中学受験は正規分布のなか、こぞって右の方へと居を移す行為と言える。
もちろん正規分布であるから各エリアの比率はあらかじめ決まっている。
だから左より右がいいと大勢が右へと向かうにしても、中央値自体が右へとずれて移動の難度が増していく。
しかし年月が経てば過去の苦労など記憶の彼方で、眼前の場所が普通の世間となるから特異な話の極端にやがて鈍感になっていく。
それで困ることなどないにせよ、偏った常識がこの世間の実像を矮小化させてしまいかねないということを忘れてはならないだろう。
そもそもいま周囲にいるほぼすべての人間が、わたしなど普通には口も利けないくらいの相手ばかりである。
実際、阪神受験に通い始めた小6の春、母数700人くらいの公開テストでわたしの順位は710番くらいだった。
その位置からすれば垂直に見上げるような人物が、いま周囲にごろごろいる。
せっかくの役得。
今後は初心に立ち返り、残りの年月、その凄さの真価を根元から感じ取るようにしよう。
そうすることでわたしの心得違いが正されて、何がしか良い作用がもたらされることになるだろう。