朝から晩まで連日ハードに動き回って、日曜の夜に帰阪した。
非日常から日常へと移行する際、多少なりとも心理的抵抗という段差が生じるものであるが、スムーズに月曜日の業務に入っていけた。
上々の滑り出し、と言えた。
快調に業務をこなし、夕刻、これまたいつもどおり家内とジムへと赴いてたっぷり運動し、夜はノンアルで過ごした。
このとき、夕飯として家内が簡単なものを用意してくれた。
残り物でささっと作ったキムチ炒飯を食べ、わたしは家内の料理上手を再認識させられた。
手を抜いて、これ。
うちの女房の腕はかなりのものと言うしかない。
先日、妹と電話で話した。
父の食事について相談し、改めて気がついた。
誰だって料理など不得手で、それが普通のことなのだ。
世にはびこる良妻賢母のイメージのなか、料理上手が当然のごとく要素として含み込まれ、にこやか優しく微笑む女子はみな料理がうまいといった風に見える。
社会通念としてそんなイメージが浸透してしまっているが、そんなものはデタラメにもほどがあるという話であって、ほとんどの人は料理に無頓着で、実際、そんな技能など露も持ち合わせていないというのが真相だろう。
だから女子からすれば理不尽な話とも言え、女だからといってなんで料理上手が前提とならねばならぬのだとの鬱憤が溜まっている向きも少なくないはずである。
わたし自身は恵まれた立場にあったから、感謝の気持ちが先にきて認知が歪まずに済んだ。
もし仮に、自分の女房が無精者で料理下手だったら、いったいどういうことなのだと社会通念のしもべとなってその不出来を責めてしまっていたかもしれない。
社会通念とは裏腹、実際、話は逆なのだ。
周囲を見渡せばよく分かる。
料理音痴がスタンダードであり、それが至って当たり前のことなのであるから、それをさも欠点であるかのようにあげつらうとすれば了見違いも甚だしいということになる。
いつかわたしは父に言わねばならないだろう。
いまどき料理上手な人の方が珍しい。
一方、若い世代に関しては、昨今そんな良妻賢母伝説など急速に風化して、天女と同様、お伽噺の類の話だと幅広く認識されるようになっているのではないだろうか。
それでもたまに、見栄っ張りなのか負けず嫌いなのか料理上手を自称する人が現れる。
しかし、上っ面と異なり料理については内実を伴わせることが簡単ではない。
天女が羽衣をひらひらさせて、その向こうがぼやけて見えないといったごまかしは利かず、たいていの場合、自称は自称の域を抜け出ない。
うちの女房については日夜研究に余念がなく、数々の料理教室に通い実践も欠かさない。
そこに山があるから登るといった感じで更に高みを目指しその技能をアップデートさせ続けている。
ちなみにこの女房、空想上の産物ではなく実在している。
簡単ではあったが、美味しい夕飯をいただいて、わたしは早めに寝床に入った。
これで日常が回復したはずだったのであるが、話は次の火曜日へと続く。