日記が習慣になると、ふと心をよぎる事柄に敏感になる。
誰かとのやりとりであったり、目にした情景であったり、昔の思い出であったり、なんとなくフォーカスされた他愛ない事柄を日々書き留めているうち、それらの真価がだんだん分かってくる。
ちょっとしたことのように思えて、実は意味深。
だからぼんやりしていても何かがよぎるとたちまちのうち意識が起動する。
もちろん何かがよぎるのは「いまここ」に限らない。
遠く向こうへと意識を向けると、過去のあの日あの時、わたしの心をよぎったあの瞬間がよみがえる。
言うなれば現在もそれらはわたしのなかを何度も何度もよぎり続けている。
その集積を視覚化するなら大流星群が夜空を駆ける様に喩えられるだろう。
つまり日記を書けば、いつしか星空観察するみたいに自分の心を眺めるようになるということである。
そして、こんなちっぽけな自分であっても心のなかは実は壮大で、わたしにしか見えない流星群が豊か鮮やかにこの内面を照らしていると知ることになる。
わたしが29歳で結婚したとき父は56歳だった。
当時の社会では55歳で引退するのが普通だった。
それから25年が経過し父はいま81歳になった。
翻っていまわたしは54歳。
当時の父と同じ年齢に差し掛かったということである。
わたしとは異なる時間軸を尺にすると、時間の実像がより明瞭になる。
父がたどったのと同じく、わたしもその年月の後を追う。
あと少なくとも25年は残されていて、あってもせいぜい30年といったところだろうか。
そう気づくと、これまでの54年の年月を引っ提げて今から新たにその25年を生き直す、そんな気持ちになる。
いよいよ終盤戦のはじまり、はじまり。
一見、地味に静かに過ごして内面はスペクタルに満ち満ちる。
目を見張るうち、あっという間に駆け抜けることになるのだろう。