ここ数日、25年という年月について考えている。
いまからカウントしはじめて、あと残り25年を生きる。
あと5年を生きるより確かに長いが、過ぎてしまえば時間についてはあってないようなものであるから、量ではなく質として捉えるべき話だろう。
で、その質とは?
この25年を実質あるものにするにはどうすればいいのだろう。
絵空事ではなく、その25年は猶予なく費消されこの身体を含めてやがては消え失せる。
その取り返しのつかない不可逆な一回性を思えば、無為に過ごして最後に痛恨となるのは御免被りたい。
残された歳月をできるだけいい気分で過ごす。
そうであることが当然の前提となるから、時間が最良なものとなるよういろいろ気を配る。
そのうえで、「人間」なのであるから、人との関係が最重要といって間違いないだろう。
と言っても自分自身の器を顧みれば人との関係など知れている。
無名で誰にも知られず、ほとんどの人からすればわたしなど何の関係もない。
しかしそんなわたしであっても家族がいて、器が小さかろうがその繋がりは厳然と存在している。
そこに「実質」を考える手がかりがあるのではないだろうか。
祖父母や母の面影が自然と頭に浮かぶ。
不在となっても、人というものは語られる何かであって、その存在は今もありありと息づきわたしたちに良き影響を及ぼし続けている。
ここで過去から未来へと目線を転じ、時間を早回しにしたとき、そこにはまだ見ぬ孫たち、ひ孫たちの姿が漠然とではあっても浮かび上がる。
いつかわたしは孫たちひ孫たちにとって語られる何かとなる。
その繋がりこそが追い求めるべき実質。
そうと分かれば、その確かな繋がりのため、残り時間に最善を尽くす、そんな抱負のようなものが込み上がる。
この25年は、人生のうちで最も勇敢で真剣な期間となっていくのかもしれない。