KORANIKATARU

子らに語る時々日記

自分の中にあるお家

今夏、お盆のひとときに思いついた。
事務所から甲子園口の自宅まで12.3km。
これを、走って帰る。

もちろん、荷物を背負っての完走はまだまだ困難だが、それはおいおい目指すとして、当面はジョグ&パワーウォーキングを心掛けてみる。
それだけでも相当な運動量だ。

慢性的な運動不足が、これで解決する。
帰宅後に走る、泳ぐなどいろいろ思案したけれど、とってつけた運動計画は頓挫しやすいし、運動の総量は大して増えない。

自宅へは毎日帰る。
この必須の工程を運動に充てれば、「家に帰る」という目的遂行と同時に「運動する」も果たせることになる。
ギルブレスの動作経済の原則にも適う非常に的を射た方法と言えるだろう。

早起きし、仕事し、歩いて家に帰る。
愚直なほどに堅物な暮らしである。
大人になれば、もっと夜の街で酒飲んだり、夜更かししてテレビを観たり、だらだら昼まで寝たり、自分の稼ぎで好き勝手散財したりとプチ自堕落めいたことも味わうものだと思っていた。
しかし、プチ自堕落など露いささかも興味惹かれないのであった。
朝の爽快、仕事の緊張と解放、長距離歩く疲労。
これらによって得られるありありとした充実感に勝るものはない。

誰に指図される訳でもない。
自ら最も快く過ごせる、独自の生活サイクルを淡々と過ごすだけである。

油断すると他人の描いた生活スタイルに骨の髄まで侵されるご時世である。
テレビの影響が大きいと思うが、虚像を信じ込まされ、いつの間にやら消費システムに首繋がれ、文字通り絵に描いたような生活を、幻影と疑うことなくあたふたと追い続ける。
我が身に宿らぬ他人様ご提示のスタイルを追い求めることが本質なので、永遠に到達できないのだが、そうと気付かず、その先もっと先へと思い通りにいざなわれてゆく。
それでも、意に沿わぬ生活リズムを、宙吊りの何かを先延ばしにされ続け強制される毎日よりは遥かにマシかもしれない。

学校では教えてくれないが、心の庭園という考え方を取り入れよう。
眼の前の現実世界の向うを張って、自分の内面に豊饒な世界を築く。
そこは精神的な援軍が常に控え、疲れはたちどころに癒され、喜びが源泉かけ流しの温かな湯のように湧出する場所である。

そのような内面を作るには、感度を増すため多岐にわたる知識の習得、体力の涵養が必要だし、折りに触れ、読書や映画や運動そして旅による手入れが不可欠になる。
だれ憚る事なく四肢伸ばし静謐に過ごすための必須の巣作りみたいなものと言える。

子ども時分は親が居場所であっても、いずれは自らを居場所とする、そのようなイメージが徐々に芽生えてくるだろう。