KORANIKATARU

子らに語る時々日記

おじさんの真贋を見抜く

私などちっぽけな立場であり、活動領域はもっぱら市井のフィールドだ。
だから既に功成り名遂げたような大企業を訪れることは皆無である。

しかし、一度、5,6年前だろうか、液晶で有名な大会社を訪れたことがあった。
付き添いである。
新規事業の相談に赴く年配の社長に、実のある話になった場合の対応よろしくと同行を求められたのであった。

全く出番なく、何をするでもなく横に座っていた。
話の内容はすっかり忘れてしまったが、ケンモホロロに扱われると社長と、対応してくれた大会社のおじさんの態度が鮮明に残る。

要は、顔を洗って出直しなはれ、ということであり、「うちと取引きできるなんて、気安く考えてるなんて笑っちゃうよ、なめんじゃないよ」ということであった。

さすが世界に名だたる大企業、伊達に当代随一と言われる液晶の製造技術を誇っているわけではない。
担当のおじさんが仁王立ちし、下々に君臨するのも無理はない。
おそらく、やんごとなき方々に対しては、地に額をこすりつけるのだろうけれど。

ここ最近、日本の家電業界の業績が悪化し、前途ますます暗く、日本経済の牙城が猛火に包まれ噴煙上げ、いよいよ断末魔かという雰囲気が漂い、当の液晶の会社に至っては、追加リストラだの、鳴り物入りで建造された工場用地や主要事業を売却するだの、頼みの出資も減額される見通しだなどと雲行き怪しいニュースが途切れる事がない。

そして、液晶だけが凄すぎた分、その波が去った後に代替となる屋台骨がないことが顕著で未来展望が描けない。
株価は下がる一方である。
テクノロジーの一潮流というのは、決して不易なものではなく、そこで天下をとったとしても一時の波濤のようなものだと見定めておくべきなのだろうか。

もしかしたら、もっと敷衍させて、高度成長を支えた諸先輩の仕事や在り方についても、同様のことが言えるのかもしれない。

経済発展がこのままずっと右肩上がりで続いて行く、売上げのパイは増え続け、日本はますます富み栄える。
こういった単純な夢想を疑いもなく受け入れ信じ続け、とっくに時代は変節点を迎えたにも関わらずいまだ払いのけることができていないからこそ、各地各方面の行き詰まりは打開されず、閉塞感が募り続けることになっているのではないだろうか。

日本再生戦略などといった言い古されカビの生えたような内容をご大層に閣議決定すること自体、かつての栄光に囚われたいまや不出来な子のテスト後の一時の誓いみたいで、更に一層頼りなく思えてくる。

こう考えてもいいのではないだろうか。
見切りつけて、一歩離れて見ることである。
子どものとき、おじさん達は酸いも甘いも噛み分け、全部お見通し何でも分かっている凄い存在だと思ってしまいがちだ。
その考えをシフトして手本としてもいいような、まともなおじさんを峻別するような厳しい眼で接するのである。

この国のおじさんたちは、大半はもう駄目である。
そのような捉え方をしてみる。
何も分からず、何もせず、何も考えようとせず唯々諾々と時間をやり過ごしてきたヒツジさんの群れである。
冷たく突き放したような目で見てみる。
だから、おじさんらが企てる新しい試みは、何一つ功を奏しない。
つまり、おじさんらがよすがとする企業の大半は、この先めぼしい成果を生まない。

そう考えて、そこらのおじさんらを頼みとする考えをまずは捨て去ってしまうのだ。

行儀良く振舞い、愛嬌たっぷりご機嫌とってそのような会社に入るなど、たった一つしかない将来性たっぷりのその身を安値で売り渡すような暴挙だ。
100ドル程度で売渡されていく南米の人身売買ではないのである。
そう想像して身震いのひとつでもしてみよう。
何もみすみす自らの人生をそんな程度の他人に委ねる事はない。

いまの日本が行き詰まっているとしたら言い逃れようなく原因の一端はおじさんにある、そのような見立ても十分あり得るのである。
大したことのないおじさん程度におもねる必要はないし、まして見下ろされて狼狽するなどもっての他だ。
彼らが今の若者だったとして、状況に対処できる者はほんの数える程に違いない。

高度成長の申し子であったおじさん達の妄言に耳を貸すのはほとんどの場合、時間の無駄だろう。