KORANIKATARU

子らに語る時々日記

高止まりした金銭感覚が高転ぶ(その1)

この日曜が長男最後のラグビー送迎となった。
朝8時、助手席に長男、二男を後部座席に乗せ家を出る。
週末何度も何度も通った経路を辿ってフライアップ式が行われる芦屋総合公園まで送り届けた。

送迎の回数は家内には及ばないが優に百回は越えるだろう。
しかし記憶に百のバラエティはなく、いくつかの季節感と断片的な休日芦屋の街路のイメージ、そして練習前の子らのキリリ緊張した横顔のいくつかだけが色濃く残る。
週末ごとにその横顔に付き添ってきた。
カラダを鍛えられただけでなく、子らはありとあらゆる感情を味わう体験ができた。
なんと充実した年月であったことだろう。
子育ての一区切りとして、これほど満足行くような分厚い手応えもなかなかない。

本当にお世話になりました。
お陰様でいい経験させていただき貴重な学びを得ることができました。
感謝し心からお礼申し上げます。

休日の芦屋界隈を運転するのは久しぶりである。
もうこの辺りを休日に訪れることもないだろう。
苦楽園のパン屋へ寄り道してから事務所へ向かう。

つれづれ浮かんでは消える思い出のなかクルマを走らせる。

遊びたい盛りの子供なのに、絶えず規律課すような地味で真面目な日々を過ごさせたものだと思う。
先日、卒業記念ということで長男が生まれてはじめてユニバーサルスタジオでアトラクションに乗ったという。
その夜から朝まで興奮さめやらぬといった様子で、世の中にこんな面白いことがあったなんてと感動しきりだった。
そこまで歓喜できるということ自体が微笑ましい。
まるで都会の街をはじめて一望して心弾ませる離島の少年みたいではないか。

ハレとケというのがあって、ハレはたまにあるからこそ心気一新されるほどにウキウキワクワクするのである。
ハレだけだとハレの値打ちが減衰し、ケはさらに耐え難く、何かいいことはないかとあたり見回すような主体性のない、堪え性ない弛緩した人間になってしまいかねないので、念のために釘を刺しておこう。

友人宅で話題にあがったマーガリンという語を知らず、マーガリンって何だと二人顔見合わせ、人の名前かスポーツか、はたまた外来の果物かと受け答えに戸惑ったという話を思い出して笑ってしまう。

世の中は広く大きく、まだまだ知らないことだらけなのである。

先日、情報の三要素というお題で冗談みたいな話を書いたばかりだが、実は大事なことを伝えているのである。
全体像と細部と流れという3次元に目を配るという話だった。
誰かの意思や共同体の掟に完全に従属する立場なら不要な視点だが、まさかそんな生き方はしないだろう。

種々雑多、様々な人間が、それぞれの思惑を持って社会で相互に作用し合っている。
家族身内、私の友人、ご近所さんなど、君たちが知るような善良で良心持った人ばかりという訳にはいかない。

一歩外に出れば、自分の利益のためなら平気でウソつく欺瞞まみれの人間もいれば、自分のことしか頭になく他人の痛みなど屁でもない、という品性の人間も実際にいるのである。
そして、そういった方々は独善的な自己の論理構造が社会の良識と相容れないと心得ているので一見そうとは分からない擬態をとっている。
つまり巧妙精緻にできた仮面を被っているので、その下に何かあるのではという問いを持ち合わせていないとまんまと一杯食わされることになりかねない。

自分はどのような構図のなか、どこに位置し、この相互作用はどこに向かって行くのか、常にその3点で自分のリアルを捉え直さないといけない。
利害関係者は誰か、誰と誰が味方や仲間で、彼らに対する責任の重みづけの比率はどれくらいだろう、敵対者がいるとすればそれは誰でありどこまでの範囲の危害を加えられようとされるのか、どこまでそれを許容するのか。
いま何をするよう要請されているのか、これは誰のために為されるのか、もしかしたら邪念の成就に協力させられているのではないか。
この関係はどのように推移していくのだろう、あの出来事やこの出来事はいかなる作用を今後もたらすのだろう。
それで自分はどうなるのか。

そんなようなややこしいことを考えないといけない。
要は、危機管理である。

世の中には巨悪がいて、小悪党も山ほどいて、ぼーとしている奴がいれば、よってたかってババ抜きに交ぜてババを引かせようと日々企んでいる。
そのように捉えるくらいの危機感を持つことが大人のたしなみとなる。

だからこそチームメイトとなる友人は貴重で大切なのだ。
以前も書いたが、抜ければおしまい、友人はリーブ21でカンタンにまた生えてくるような類のものではないのである。

つづく