KORANIKATARU

子らに語る時々日記

喜んでもらうと嬉しい

間もなく上方温泉一休というところで、観光バスが左折し入って行くのが見えた。
悪い予感は的中し、お湯場は高校球児で混み混みになった。
丸坊主の若きちんちん君たちは鍛え上げられた体躯をしてしかしとても幼い風に湯浴みに興じている。

丸裸で対峙すればまるでこちらに勝ち目はない。
いざ凄んでみせたとしても勝機はないとふんわりとしてしまったこの肉体が声高に告げている。
何とか隅っこに陣取り一人の世界に身をひたす。

先日家内を東京の用事に出向かせたのだが、優先座席がちゃんと空いていることに驚いたという。
先週私自身もそちら方面で実際に目にしたので納得できる。

ではなぜ大阪環状線では若き就活大学生風情が年配の方など視野にも入らないといった様子でどっかと腰かけているのだろう。
風土の差ということに帰着するのだろうか。
同じ日本であっても大阪の空気の基底をなすのは和風の情緒といったものでは全然なく、かといって先進国的な都会の洗練といったものからもほど遠い。
こってりとした東アジア的な粗雑さ猥雑さといったものが色濃く漂っている。

公共心といったものなど、ええかっこしいの標準語みたいで、馴染まない。
気取るくらいなら肩の力抜いて本音さらす方が気が楽だ。
そのような飾り気のなさが、大阪独特の身も蓋もない世俗感を形成しているのかもしれない。

今後の課題だ。
土地柄とは言え、若き就活生が優先座席にどっかと座る図など退廃的だ。
そんな若者にこの社会は一片の期待も抱くことができない。

空気に馴染んできたのかだんだん高校球児たちの行動がまわりを意識し自制的なものとなっていく。
彼らの中に公共心が生まれたようだ。
なるべく固まって動くようになり、まわりに迷惑かけまいとする様子が明確にうかがえるようになってきた。
しっかりしたリーダーが先導しているのか、指導者が日頃からちゃんとしつけているのだろう。

昼間目にした憔悴した初老の男性の表情が再び浮かぶ。
慣れぬ職場で自分の子供みたいな年齢の若者にどやされる。
怒られないように頑張っても、気ばかり焦りますますうまく事が運ばない。
また怒られると思うと胃がキリキリする。
言い訳のパターンも尽きてきた。
誰も彼も余裕がないから、とがったような感情のしわ寄せが全部こちらに向いてくる。

私だったら耐えられるだろうか。
私がもっとも足手まといになるような職場を想像してみる。

引越屋がまず浮かぶ。
A4の紙以上に重いものを持たない日常だ。
とても戦力になれない。

舌打ちされどやされ給料泥棒とバカにされ、姿形まで愚弄されるだけでなく親の顔まで見てみたいと嘲笑されて挙句、気は確かかと来歴すべてをけなされるのだ。

何ひとつ貢献できない場で、敬意も抱かれず、まごまごびくびく縋るような思いで一分一秒時間を過ごす。
これ以上に恐ろしいことがあるだろうか。

そのような想像の旅を終え、今の現実に戻ってくる。
やれる仕事があって、少しは認めてもらえる場がある。
これほど幸福なことはない。
少々つらかろうが、何でもないことだ。
第一よくよく考えれば、A4の紙持つなんてつらいうちに入る訳がない。

仕事を通じ人に喜んでもらえる。
これが基本中の基本だろう。
その基本を果てしなく追求するプロセスが自らを幸福にし自分の居場所を豊かにしてくれる。
今度は気取ってナイフとフォークでフレンチでも食べながら人に喜んでもらってかつ自分も嬉しいということについて話合おうではないか。

今夜も一休タイムが近づいてきた。
では。