KORANIKATARU

子らに語る時々日記

高止まりした金銭感覚が高転ぶ(その2)

土曜に家内とプールへ向かう途中、ユニクロで普段着のズボンを買った。
2着で5千円しなかった。
今も貧乏だが、かつてもっと貧乏だったとき、1着2万円のズボンを買っていた。
どうかしていたのだろうか。
心が空洞だったのか、そんなものでも身に付けないと自分の値打ちが出ないとでも信じていたのか。

何かしら意味があったとしても、1着2万のズボンなどはなはだ不便なものである。
汚せない、大事に扱わないといけないといった気遣いの話ではなく、金銭感覚が高止まりしてしまうと、融通利かないという面で厄介だということだ。

清貧の理念を説く訳ではない、もっと実際的な話だ。

金銭感覚が高止まりすると、高転びするリスクが高まる。
いつもいつまでも幾らあってもお金が足らず、何でもエサにぱくつくような浅知恵の魚介類のようにカネに釣られやすい安っぽい精神構造が醸成され、汚れたカネにでも平気で手を出し恥じぬような下劣な手合いとなりかねない。
欲に組み敷かれ巨悪の片棒担ごうが提灯持ちとなろうが、渡りに船とニタニタ下品に笑い、捕らぬタヌキの皮算用に明け暮れる。

表面的にだけ映える七色の物欲が精神を支配し、根本にあるはずの生命体としての喜びも人としての矜持も薄まってゆく。

そんな出来損ないのような精神を育てるつもりはない。
仕事で感謝されこれ持っていって下さいと差し出され、その範囲で地に足つけて暮らす。
それが大原則であり、それで万一大儲けとなったとしても、金銭感覚の重心はどっしり低くしておかなければならない。
もちろん、使い切れない程のお金が湧いてきて2万が20円くらいの感覚だというなら数値を読み替えて考えればいい。
間違っても日本経済の活性化のためにモノを買って消費せねばとそそのかされて救世の念に駆られることはない。
お金があればあった先から使う人にそこは任せよう。

プールで泳いだのは数ヶ月ぶりになるだろうか。
あれだけ好きで何年も通っているのについ仕事にかまけ足が少し遠のくと、そんな趣味などなかったみたいに数ヶ月全く通わなくなった。
無理やりしょっぴかれて泳いでその心地よさを思い出した。
温泉であれプールであれ、水につかるのはなんであんなに気持ちいいのだろう。
生命の源との一体感が遠い郷愁のように蘇るからなのだろうか。

そして思い出す。
プールに足繁く通っていた頃、スポーツの森の受付のおばさんが、これまた当時私がよく通っていた大和の湯でも働き始めたことがあって、清掃などで度々男湯のなかに入ってくる。

プールでは海パン一丁だが、風呂では丸裸だ。
通常、風呂場に係のおばさんがいたところで逃げも隠れもしないし何も思いはしないのだが、このときばかりはやや狼狽してしまった。
パンツのあるときないときでは大違いだ。

思いがけず人間の真実の断面を垣間見たように思う。
匿名の場では平気でも、そんなちょっとした関係性があるだけでも、丸出しは躊躇われるのだ。

パンツ一枚の気位と尊厳。
人は丸出しを慎む程度には装いを必要とするのだろう。

道中、右折車で前途閉ざされた車両を左車線走る私の前に入れてあげる。
そのクルマが右折車をかわし再び右車線に戻る際、挨拶であろう、左の指示器を二回点滅させた。
まさにウインクされたみたいで気分がよくなる。

桜の満開も近い。
そろそろ私の友人や仲間を折りにふれて我が家に招き、君たちにも紹介していこう。
春だから、君たちにも転勤で遠くへ引っ越す友達や別の学校へ進む友達との別れもあるし、新しい出会いもわんさかある。
一期一会という言葉の真の意味を知り、人の縁の不思議さをそろそろ実感もって知り始めてもいい時期かもしれない。