KORANIKATARU

子らに語る時々日記

モノだけでは全く足りず役にも立たない。


降ったり止んだり、雨が悪あがきしているかのような空模様のなか東大阪市役所に立ち寄った。

以前、家内に用事で行かせた際、ラグビー振興のグッズなどをもらって帰ってきたのでそこらに置いてるのだろうと見回すが見当たらない。

家内に電話し聞くと、わざわざ階上にあるラグビー振興部を訪れ、子がラグビーしているので何か記念に下さい、と頼み込んでもらったのだという。

私にはそんな根性はない。


市民課で書類を受け取る。
向こう側に長蛇の列がある。

列があれば気になる。
何か得することでもあるのだろうか。

列の先に掲示があった。
保険料減免相談。

大阪は断末魔にある。
直に街を歩けばそのような不吉沈鬱な黙示的光景にいくつも行き当たる。

市役所を後にする。
雨が降っているが傘を差すほどではない。

駅で電車を待つ。
地下の構内は薄暗く、ひと気もない。
空調が稼働しておらず異様な湿度だ。
衣服がカラダにまといつく。


仕事を終え、クルマで帰宅する。
慣わし事のようにFMココロ、マーキーの声を帰路の伴にする。
この時間が最も心くつろぐ。

家族四人揃って食卓を囲む。
夏の予定を話し合う。

長男の学校は夏休みが短い。
二男の学校も、私たちの頃より遥かに補習授業が充実し、忙しい。

夏「休み」のはずなのに休みと言えるようなものではない。
日頃とは異なるアプローチで更なる充実を目指す特別期間として捉えるべきなのであろう。


子らは各自の部屋で勉強に取り組み、家内は明日の弁当の仕込みに忙しい。
私はハイボール飲みつつ、リビングでサッカー観戦。

家内が言った。
明日のお弁当はハンバーガー。
ハンバーグではなくハンバーガー。

見れば絶妙の焼け具合のハンバーグがフライパンに横たわる。
ハクション大魔王でなくてもよだれ止まらない見事な出来映えだ。


このような些細なことが、心に残る。

世間では、モノよりコトへと消費対象がシフトしているという。
所有より経験。
目に見える「物」より目に見えない「事」に重きが置かれる。

当たり前のことのように思える。
そもそも、モノとコトは対というより、次元を異にする。
単細胞と多細胞、原子と分子、といったように概念に上下がある。

モノ志向がコト志向へと移ったということは、日本人が成熟したことの表れと言えるのだろう。


上下の概念なのであるから、よくよく目を凝らせば、モノを志向する背景には、実はコトによって喚起された欲望がある。

モノ志向と言っても、上下の位相を度外視すればコト志向に包含されるというのが正しく、コトがモノへと変換される文脈への思慮があるのであれば、それはもはや表層だけ捉えてモノ志向と呼ぶことはできないだろう。

このように考えれば、モノばかりに焦点を合わせ、モノについてばかり話をする人がなぜつまらないのか、分かろうというものである。


モノだけでは全く足りず役にも立たない。

学んだコト、経験したコト、できるコト、知っているコト、、、コトが、人を形作りその実質となる。

だから、コトと関係づけられないモノは浮きに浮く。
世はこれを、中身のない人が何を持っても仕方ない、という。

何が何だかよく分からず、モノだけ欲しがる人は、コトの欠落に気付かない。
だから次から次へとモノに飛びつき、キリがない。


先日、家内が作った唐揚が学校で好評だったという。

一緒にお弁当を食べる友人から物々交換を要求され皆に提供した結果、二男はたったの一個しか唐揚にありつけなかった。

唐揚というモノが、皆の記憶に残るようなエピソードというコトになる。
唐揚ではなく、このエピソードの方こそ、愛おしい。

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