KORANIKATARU

子らに語る時々日記

文武両道、「文」と「武」の重みづけ


映画「ビフォア・サンライズ」の序盤、イーサン・ホークとジュリー・デルピーがパリ行きの列車を途中下車しウィーンの街を散策しはじめたところでDVDを停め終業後の事務所を後にした。

北新地に着いてレオニダスに向かう。
チョコの小さな詰め合わせを買って待ち合わせ場所であるアバンザ裏側の角地に向かう。

宵の始まりの時刻。
ファッションショーでモデルが歩くスペースは、ランウェイだったかキャットウォークだったか。
腰をクネクネ、アバンザ裏側の通りを歩く着飾ったお姉さん方に目をやっていれば飽きることがない。
それら女性をキャット・ギャルと名付ける。

町角には羽振りよさ気なおじさんが少年のような表情で首を長くし誰かを待っている。
案の定、現れたのは、キャット・ギャル。
腕を組んで、路地の向こうへと消えていく。


まもなく待ち人が現れた。
夫婦の待ち合わせに北新地ほどそぐわない場所はない。

目の前にある善道に入ってカウンターに腰掛ける。
先週は席が取れず今夜まで待たねばならなかった。

生ビールで乾杯した後、家内が前菜を注文していく。
ピータン、蒸し鶏、ザーサイ、刺身サラダ、名物よだれ鶏、くらげのマスタード。

この時点で世界最強の6品が現れたようなものであった。
どれもこれも唸らずにはいられない。
唸った後に感動のあまり嘆息が漏れる。

中華には一家言ある家内も絶賛しきりだ。

店の外側ではアバンザ周辺の路駐自転車の一斉撤去が始まった。
入り口のガラス越し、その様子が見える。

作業員が大挙し慌ただしく動きまわって無数の自転車をトラックの荷台にどんどこ積み上げていく。
昼間の熱気が砂埃ともに舞い上がる。
日中の暑さは顔面歪むほどの苛烈さであった。

扉のガラスがスクリーンとなって、何か戦時のドキュメンタリー番組が映写されているかのような奇妙な感覚を覚えつつ眼前に並ぶ中華最上級のディッシュに向き合う。

ビールをハイボールに変え、そして、紹興酒をストレートで頼む。
前菜に引き続き、酢豚、エビマヨが配される。

更に美味しさが増していく。
上には上があった。
前菜が最強ではなかった。

ここに及んで、私は善道を史上最強美味の店と決定した。
入店し一時間も経過していない。

谷口も岡本も五鉄ばかりに足を運んでいる場合ではない。
数軒隔てた同じ並びに善道がある。
次回はここで集まろう。

続いて、四川風の麻婆豆腐がやってきた。
家内を見る。
同意見であった。
これほど美味しいのであれば、白飯と一緒に、が百%正しい食べ方だ。
後悔せぬようご飯を注文し、分け合う。

締めは担々麺。
この担々麺となら、一生添い遂げてもいい。
他には何もいらないよ、担々麺。
密か担々麺と堅く契りを結び合った。


帰途につく。
星がよく見える夜だ。

南の空には土星、わし座のアンタレスが見える。
さすがに一等星、惑星に劣らぬ光を放っている。

歩く方角、西の空にはビル街の真上低くに金星と木星が並んで輝いている。
さしもの木星も宵の明星には敵わない。
左右に並ぶが、明度の甲乙が一目瞭然だ。

善道のシェフは凄いね。
家内と話す。

一品おいしいだけなら才能があってたまたま上出来なものが仕上がったと言えるのかもしれないが、全部がとびきりおいしいとなれば、これはどう考えても見えないところで不断の努力があって日夜の研鑽が積まれているに違いない。

私は勝手に決めつける。
絶え間なく料理を作り続け電話にも対応し、忙しいのに朗らかな雰囲気を失わないあのシェフは、天賦の才あってかつ努力の人だ。

家内は中華料理を得意とするが、この域になるともはや見上げるだけ、手が届く訳がない。
真似などできるはずもなく、素人過ぎて口も挟めない。

凄い人間が、そこで連日、最高の中華を振る舞っている。
私は一人勝手に感動を覚える。


北新地のホームはごった返していた。
滋賀の大雨で遅れが生じ、さらに立花で踏切事故があって断続的に電車が停まっているようだ。
人をかき分けやっときた電車に乗って、美味な余韻にひたりつつ家内と話す。

誰であれ一流と言われるくらいの人物の背後には奮闘重ねてきた地道な軌跡が必ずあるに違いない。

好き放題過ごして、ひょんなことから幸運がまんまと転がり込んであれよあれよと何かが結実し続けるということはない。
親として、その当たり前を子らに教えなければならないだろう。

バブルを経ての世相の反映か、子の教育について、のびのび放置の放任主義が何か価値あるものに帰結するという無思考が跋扈しているが、私達はそのようなまやかしは真に受けないようにしよう。
昔気質に努力というものを馬鹿正直に尊重し、歳など関係なく、物心つけば誰だって努力するのだとその価値を伝えよう。

努力できる環境にあるなんて、どれだけ恵まれたことだろう。


帰宅する。
熱暑のなか散々走って疲弊した兄弟がリビングで寝そべり束の間の安息に浸っている。

日焼けし一回り顔が引き締まって精悍な面立ちとなっている。
日に日にカラダが頑丈になっていく。
父としては喜ばしい。

小さいときからスポーツをさせてきたが、これは文武両道を目指してのことではない。
安楽すぎれば子らが阿呆になってしまうと懸念してしんどくて面倒なことに取り組ませただけのことであった。

「武」について非凡な何かが脈打つ家系でもなく、どう贔屓目に見ても、子らにおいて「文」を脅かすほどに「武」が台頭するとも思えない。
であれば、「武」はそこそこに、「文」に重きがあるべきだとの結論になる。

蜂が飛ぶほど「文文文」で、そこに字足らずで「武」がちょいとあればいい。
それくらいのバランスが最適であると私は思っている。
適性も展望もなく「武」に注力し過ぎることは非合理なことであろう。

父というのは、共感を得るにしても反発を受けるにしても、価値観は鮮明にした方がいい。

私は言う。
「文文文、ハチが飛ぶ」である。
いつか力ある他者と有意なコラボができるよう、自己の基盤を形成する。書が読めて文章が書け数式が理解でき外国語が使えて自然のメカニズムを知り歴史や文化に通じ社会を取り巻く諸問題についても詳しい。
男子であればまずはそう目指すべきであろう。
その上で、何か秀でた独自芸が二つ三つ構築できれば御の字だ。

「武」はそこに附随するサブ的位置づけになるだろうか。
手放し礼賛されるほどに「武」については、それで逞しくなるやら、根性つくやら、社会性が身につくやら、紋切り型なイメージ論が跋扈する世間であるが、それほどのものではない、と私は断言しよう。

スポーツしたからといって人間が練磨されるとは限らないし、人はスポーツ以外でも磨かれるのである。

スポーツの世界に順応しすぎれば、序列への服従主義など一兵卒根性が抜けなくなるといった弊害を被ることだってある。
使用者から見れば使い勝手のいい人間が出来上がるかもしれないが本人はいつまでそんな「他者迎合的なガッツ」を見せ続けなければならないのだろう。

選択の結果は人それぞれ、何事もほどほど、という当たり前を忘れてはならない。

もちろんスポーツが不要とは言わないし、やった方がいいのは確かなことであるけれど、数あるなかの一要素で十分ということである。
友だちと遊んだりデートしたり、やらねばならないことは他に山ほどもある。

何に最大最高の時間を捧げるのか、盲目的に右倣えであっていいはずがない。
ありふれた力量しか持ち合わせない世界でへつらって過ごすより、何か一つ抜きん出てそれをひけらかさず謙虚に振る舞う方が遥かにいい。

だから、自信満々、意気揚々と「ブン・ブン・ブン」で、時にハツラツと「ブ」で行けばいい。

難癖つける人の絶えない陰気な世であるが、頭でっかちと言われれば、無上の褒め言葉だと思えばいい。
取り合わず、そやねん、おれ、でかいねん、くらいあっけらかんと言えればカッコイイではないか。

いい日本語がある。
心技体。
心技があって体はその次にくればいいのである。

だから今日も勉強済ませて、激暑のなか10周くらいはお茶の子さいさいと走ればいいのだ。

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