KORANIKATARU

子らに語る時々日記

心のなかを逆巻き渦巻く記憶のノイズ


仕事を終えた帰途、西九条で途中下車して大福湯に寄る。
ここのサウナのほどよい暖かみが気に入っている。

これでもかという熱さのサウナでは逆に疲れが増してしまう。
ふんわりしたぬくもりに包まれるかのよう、それくらいが疲労除去にはちょうどいい。

一日のあれやこれやから解き放たれサウナの一隅にうずくまる。
最も心落ち着く時。
手先足先から深奥にかけじんわりと温まっていく。

ゴムボートが再び膨らみ始めるかのよう魂に息吹が戻ってくる。
この感じがたまらない、やめられない。


が、流れる音楽は今日もイマイチであった。
最初は演歌。
途中でポップスの有線に変わって竹内まりやの曲になったので大体の心落ち着くラインナップが想像でき一瞬ほっとするが、引き続いては例のごとく、耳にしたこともないようなお子ちゃまポップスが流れ続けた。

ザワザワとしたノイズだとしか感じられない。

密室に閉じこもって若気満載のガチャガチャ音に晒されることはあまり心地いいものではないが、トータルで見れば取るに足りない。
サウナは清潔でほどよく暖かく水風呂が極限レベルの冷え加減。
であれば十分及第というしかない。

耳に馴染み聞き心地のいい音楽まで求めるとしたら贅沢に過ぎるというものであろう。

仕方ないのでノイズについて沈思する。


先日、ビクトル・エリセの映画を二本立て続けに見た。
ミツバチのささやき」と「エル・スール」だ。

静けさを基調としたような映画である。
風の音、鳥のさえずり、土を踏む音、ドアのきしみなど日常の音が大切に扱われている。
映像も素晴らしい。
背景となる空間は絵画のように美しく、人物の表情に深みがあって心の深淵を垣間見せる。

カメラが捉えるどの場面においても、その視点と構図に見惚れてしまう。

ゆっくりとストーリーが進行していく。
うっとり見続けているうち、意識は溶け込むようにその世界に融合していく。

だから見終わった後、余韻が長く引き続く。
目を閉じれば幾つものシーンがパノラマのように浮かび広がっていく。


何かが残って登場人物について後で何度も思い起こし考えることになる。
静けさの背後にあった本当に大事な部分が時を追うごとに気になって仕方がない。

それら登場人物について理解を寄せようとするなら、もしかしたらノイズという切り口が役立つのかもしれない。
表面上のノイズが排された静かな映画であればこそ、人物の心の奥深くに隠されたノイズに耳を澄ませるというアプローチが理解を助けるように思える。

両作ともスペイン内戦がストーリーの背景に横たわっている。

直接的に内戦が描かれたり言及されることはない。
間接的な情報として、ときおり映画のなかを横切ってゆくのみである。

ミツバチのささやき」の主人公は小さな少女アン。
両親には内戦で受けた心の傷が影のようにつきまとっている。
母親は家族以外の誰かを想っている風であり、父親は内戦によって不本意な境遇に置かれている。
解釈のしようによっては父親には希死念慮のようなものさえ読み取れる。

「エル・スール」の主人公は少女エストレリャ。
彼女の両親についても内戦の余波が尾を引き重くのしかかっている。
父は内戦によって何かに引き裂かれており母はその影に怯えている。
父親は最期には自死する。
穏やかで優しい表情を見せるばかりの父の内面について詳細が描かれることはない。

映画のラスト。
アンは両親や姉などとは別様に、自らの世界を見出し始める。
暗闇に向かって自らの名を呼びかけるシーンから確たる自我が幼い心のなかに芽生え独自の世界を内に胚胎したことが窺える。
アンは家族に従属するような幼子ではもはやなく、この先独自の道を行く者となっていくのであろう。

一方、エストレリャは父の自死後、父の故郷であった南へ向かうが父を失ったことによる何らかの葛藤を抱え続けることになるのであろうと予見させる。


平静に見える人の内部に、ともすれば心の調和を乱しかねないノイズのようなものが記憶の淵から噴き出し逆巻き渦巻いている。
一見しては分からないが人はそれがもたらす痛みのようなものに耐えている。

そのようにアンはいずれ気づくことになり、エストレリャについてはすでに気づきそれだけでなく自らもそのノイズを抱え込む者となった。

映画を見ると、そのBefore・Afterで何かが変わる。
人の内奥について思慮するときに、これら映画は必ず思い起こされることになるだろう。

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