KORANIKATARU

子らに語る時々日記

年の瀬の激務を前に映画「海辺の家」を観て一年分の涙流した。


ふと時間が空いた。
日曜午後に生じた凪のような時間。

仕事するには既に頭は飽和状態。
文字はもうたくさん。
しかし、散歩するには寒すぎる。
酒を飲むにも早過ぎる。

では、映画を観ようとなる。
手持ち無沙汰な時間を茫と過ごすより、名作に触れる方がはるかにマシである。
それに映画が良き刺激となって、頭の飽和が癒えることも多い。

日頃から鑑賞候補はTSUTAYA DISCASでレンタルしてストックしてある。


「海辺の家(原題:Life as A House)」を選び誰もいないガランドウの事務所で見始めた。

このところ選ぶ映画にハズレがない。
この作品も私のなか屈指の名作と位置づけられることとなった。

号泣避けられないので、一人で見るしかないだろう。
特に天六のいんちょなど、隣近所まで響くくらいにむせび泣くのではないだろうか。

死期迫る主人公に感情移入してからは、海がきれいなだけで、風が優しいだけで、それだけで涙が込み上がってきて止まらない。
こんな美しい映画は、滅多にない。


死期を悟った主人公が、別れた妻のもとで暮らす息子と一夏を一緒に過ごす。

息子とともに、いろいろな思いの詰まった古家を取り壊し、長年の夢だった新しい家を建て始める。

家が生まれ変わっていく過程で、登場人物の心情が少しずつ少しずつ変化していく。

主人公は死期が迫ることを最後まで明かさない。
しかし、主人公の真摯な思いが伝わっていったのだろう。
心を閉ざし反抗的だった息子とも次第に心が通じ合うようになる。
別れた妻とも向き合い、素直に心のうちを打ち明け、失った彼女の心も取り戻していく。

寂れ荒んだ古家はもはや跡形もなく、新しい家が生まれつつあるまさにその場所を中心に人の輪が広がっていく。

病院のベッド。
主人公と、別れた妻が寄り添う。
妻がハンディカメラを再生し、そこに映るシーンについて主人公に語る。

主人公はもう顔を上げ画面を見る力もないが、平穏な表情を浮かべ微笑んでいる。
そこには、幼かった頃の息子と主人公が一緒に海で遊ぶ姿が映っている。
主人公が息子を抱き上げ、髪にキスし、海の中で幸福そうにじゃれ合っている。
愛した人に寄り添われ、最高に幸福だった頃の思い出とともに主人公は最期を迎える。

そして、悲しみの涙乾かぬうちにラストシーン。
父と建てた家を息子はどうするのか。
息子の心に父からしっかりと受け継がれたものがあると分かって、最後に涙は陽性のものへと変わっていくことになる。


映画を見る前の茫と曖昧な意識はすっかり吹き飛んだ。
父であることの意欲湧き出る、ほんとうにいい映画であった。

今夜は息子ら誘って風呂に行き水入らず過ごすことにする。
昨日満海で鍋にするてっちりも買ってある。
いい映画の流れのまま、良き食事となることだろう。