KORANIKATARU

子らに語る時々日記

内助の功についてハタと気づく


クルマを運転していると脳の周波が変わる。
日頃は入り込まない領域に意識が転がり込み、普段全く気づかないことにハタと思い当たるということが起こる。

今朝ハンドルを握り、内助の功の恩恵に浴する我が身の姿がありありと浮かんだ。
無意識のうちそれを当たり前に思っているのだろうか、平素はそのような自分の姿を見過ごしている。

遠い昔、子らが生まれて間もない頃のこと。
四六時中飛んで跳ねてするやんちゃ盛りの男子二人を育てることはたいへんなことであっただろう。
そのうえ食事の支度をはじめとし家事全般をこなさなければならない。

夫は仕事に出かけたまま帰らない。
早朝に出て帰宅は夜中。
土日祝日も仕事だというからまるで母子家庭である。

わたし自身は何ら気兼ねなく仕事に没入できた。
目の前の業務に勤しむだけでなく将来に向けての準備など多岐にわたって取り組むことができた。

それで今がある。

家事や子育てについてあれをしてくれこれをしてくれと一切言われたことがないし、週末くらいは子供の面倒を見てくれと一度たりとも言われたことがない。

わたし自身から手伝おうとしたこともない。
全く褒められたような話ではなく、今時の男子としては間違いなく失格、夫として出来損ないといえるだろう。

家事に育児にパートナーとして応分に負担をシェアし協力するのが当たり前という世である。
その観点で見れば、やはりわたしはろくでなしといった部類に属する。


しかし、そのおかげ。

平均的な男子のポテンシャルが100とすれば、わたしなどまるでちっぽけ、せいぜい半分の50にも届かないといったレベルだろうが、なんとか自身の上限を超えて目一杯60くらいには達したのではないだろうか。

ひとえに内助の功のおかげと言える。

それがあってこそ、わたしは思う存分仕事に身を投じることができ、ちっぽけでありつつも多少はましな人間になることができた。
この流れが続くと思えば、今後万一世相が変わっても次なるキャリアも何とか構築できるだろうし、その先の先についても楽観的に構えることができる。

もしわたしが日常のあれやこれやについて、ああしろこうしろという渦に巻き込まれていたら10や20のしょうもない、男社会において自らを誇るものが何一つないといった体たらくぶりだったことだろう。

夫婦像として決してお手本となるような話ではないかもしれないが、是非とも子らには男子としてここに潜む本質を嗅ぎとってもらいたい。


そして付け加えるならば、その内助の功の延長線上に男子二人の子育てもあったと言えるのだろう。

もちろん子育てについては不確定要素が大きく、こう育てれば必ずこうなるといった勝利の方程式があるはずもなく、誰が悪いわけでもなく良かれと思ったことがことごとく徒となるような話が後を絶たない。

だから、その良し悪しなど一概に言えるものではないのであるが、そう十分に心得たうえで、そのような母親があってこそという観点は捨てきれない。

同年代の男子のポテンシャルが100だとして、わたし同様50程度のポテンシャルのサル同然の子らが60くらいになったのだとすれば、それはやはりそのための労を払った存在があったればこそ、ということなのだとわたしは思う。

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