肉眼と書いて仏教の世界では「にくげん」と読む。
肉眼というのは、人を外見だけで判断し決めつけるような反射的な反応であって、能力としては低次の部類に属する。
高次の眼力としては心眼や天眼などがある。
それが備わってこそ本質を見抜くことができる。
先日の酒席の場、人生の大先輩からそのような話を伺った。
世にはばかるインスタの世界などまさに「肉眼」による虚実騙し合いであるなあなどと思いつつ黙って頷いていたのであったが、心眼や天眼といった話については、どこか空想的な部類のものに思えて具体的には捉え難い。
第一、どこにあるのかさえ見当もつかない。
しかしそんなことを人生の大先輩に質問するのも子どもじみているように思え疑問は封じ、天眼はおでこ、心眼はみぞおち辺りにあるのだろうと勝手に決めて、頷き続けることにした。
帰途、ふと思う。
人を見る着眼の仕方については、論語由来の孔子の言葉の方が分かりやすだろう。
すなわち、視、観、察。
動詞的なニュアンスで示されるので、心眼や天眼よりは実感しやすく、実際、人間理解において、より深く本質に達するのを助ける教えだと言えるだろう。
まずは視る。
文字通り、その人を観察する。
この時点ではまだ表面的な理解と言える。
そして観る。
その人の行動の裏付け、動機などをたどってみる。
行動原理を知ることができれば一層深くその人を理解することができる。
最後に察する。
その人が自身の在り方や行動に満足しているのかどうか、何に幸福を見出しているのか、最終的な人生の目的は何なのかを知ろうとする。
そこまで見れば、器が分かる。
世には、視るだけで推し量ることのできる薄っぺらな人もいれば、視、観、察の3ステップを経てやっとその輪郭が見通せる奥行きのどでかい人もある。
近いところばかり見ていれば近眼になる。
それと同様、薄っぺらに囲まれすぎると人を判断するのに肉眼で足りるようになってしまう。
われら男子。
でかい人と出合れば僥倖。
身近にあって素通りしてしまえば人生の大損失。
どこにあっても探知できるよう、眼力磨き続けなければならないだろう。