金曜夜、この日も一人で食事を済ませた。
前夜と同じ居酒屋。
カウンターに腰掛け、イカゲソの唐揚げとキスの天ぷらをつまみにビールを飲む。
隣席の二人組は同僚の噂話を酒の肴に交替で長広舌振るっている。
そこそこの年配者に見えたが、ともに独身であるようだ。
独身男性の止まり木にわたしも並んで聞き耳立てて、一人手酌でビールを煽る。
家に帰らず食事する。
この局面で、有する人間関係の全貌があらわになる。
事前に日時調整しておけば駆けつけてくれる。
そんな友だちの顔はいくつも浮かぶが、思い立ってすぐ声をかけるのは憚られる。
いろいろと皆忙しい。
逆の立場になって想像すれば、遠慮しておこうとの結論に至る。
他に両親や弟の顔も浮かぶが、先日顔を見たばかり。
家で過ごす時間は極小なので地縁で誘い合わせる顔見知りはおらず、事務所つながりで言えば、職員含め仕事関係ばかり。
何も金曜夜まで仕事することはないだろう。
全体を見渡せば、いろんな人間関係があるように見えて、家族を除けば、学校つながりの友だちしかないという、とてもシンプルな構造があらわとなった。
先日、8月30日の朝日新聞の耕論で精神科医の春日武彦さんが語っていた話が頭に浮かぶ。
子どもは社会の宝。
その言葉の欺瞞性を指摘するような話であった。
いまや地域社会のつながりは形骸化し、大人の共同体は崩れ、社会で宝物のように共有できる子どもなんて存在しない。
「子どもため」をほんとうに思うなら、まずは大人のつながり、その共同体の再生があってこそのことだろう。
それがあってはじめて、子どもが共有の宝として存在し得る。
一人ビールを飲みながらそんな話を思い出し、なるほど、「子どもため」という視点で見れば、毎月開催される早稲田三金会や星光倶楽部といった場の存在意義はとてつもなく大きいのだと肌で感じるような思いとなった。
そこでは、いまや稀有となった大人の共同体が豊穣に形成される。
そのつながりに関わるわたしの背中を子らは見ているであろうし、大人になればそれが当たり前だと思うはずであるから、子らも将来そのような共同体に自然体で入っていける。
それに実際、子らを交えての交流も生じ得て、大人の飲み会が、文字通り、子どものためという高次の目的に接続していくことになる。
このところ、早稲田三金会にも星光倶楽部にも顔を出していない。
まずはここを改め、出席率をあげていくことにしよう。
そうすれば、急遽金曜の夜であってもカウンター横に座る相方くらいはいつでも見つけられるということになり、それがおそらく巡り巡って子どものためにもなっていく。