前日やや飲みすぎた。
体調を戻すためジムに出かけた。
日曜の朝、快晴。
ジムにほとんどひと気はない。
窓全面が空の青となったかのようななか走って爽快。
たっぷり汗を流した。
ジムに長居しすぎて、家内と出かける頃には昼になっていた。
ナビに赤穂と目的地を入れるが、到着時刻を見て諦めた。
行って帰ってそれで一日が終わってしまう。
粉もんを食べようとの声がどこからともなくあがって行き先を長田に変えた。
ケーズデンキにクルマを停めて、青森を探す。
お好み焼きなら青森。
聞こえ高い店であるようで家内友人のおすすめでもあった。
長田の通りを歩きつつ、ふと気を許すと脳内の地図はより馴染み深い東大阪の長田に切り替わる。
その度、ここは神戸なのだと自らに言い聞かせ意識を修正しなければならなかった。
閑散とした商店街を抜けるとすぐに青森は見つかった。
店は混み合い、二組ほど待ち客があった。
店内の丸いすに家内と腰掛け順番を待つ。
他の客が何を頼んでいるのかそれとなく観察する。
すじそばめし、かき焼き、ちゃんぽん焼き。
待っている間に注文するラインナップはあらかた決まった。
壁一面に貼られた有名人の写真を眺めながら、家内とノンアルコールビールを注ぎ合って粉もんを味わう。
そして思い出した。
わたし自身が粉もんの国の生まれ。
粉もんの店が所狭しと立ち並ぶような場所で育って、流れる血も粉もんでできているといっていい。
わたしにとって長田は、一見似たように見えて異なるアウェーの地であった。
家内との会話は粉もん国の話から昔話に変わった。
丸いすに腰掛けお好み焼きを分け合う若いカップルたちはつい10年前のわたし達の姿であった。
10年前に視点を移して、いまのわたしたち二人を凝視してみて驚いた。
たったの10年で隔世の感。
およそ地続きだとは思えない。
つまり、この先の10年もまったく予測の範囲外と思って間違いない。
「いま、ここ」が大事と言うけれど、「いま、ここ」にだけ着眼することで生じる「誤認」についても頭の片隅に置いておくべきなのだろう。
そもそも「いま、ここ」など永遠にこの手からすり抜けていくような何かであって、気づいたときには「いま、ここ」は既に決せられていて、わたしたちがその主体的な当事者であるのかどうかさえも怪しいものだ。
つまり、「いま、ここ」を注視して分かることなど何もない。
10年という厚み含みで見渡せば、いろいろな希望や期待がそのスクリーンに投影される一方で、何が起こるか見通せず、誰であれいろいろあって大変で、相当つらいこともあるかもしれず気が引き締まるような思いがするし、周囲に対する共感の情も素直に湧いて出てくる。
尺を増やして50年にしてみれば、まるで映画のラストシーン、わたしも含め友人ら一人一人にお迎えが来るシーンも目に浮かび一抹の物悲しさとともに強い連帯感のようなものも覚える。
長めの時間を射程に入れると景色が一変する。
そんなアングルで見てこそ、わたしたちの在り様の本質が理解できるのではないだろうか。
分厚い未知の時間を思えば、目先にまつまる喜怒哀楽など時の流れに濾過される他愛ないような話にも思えくてる。
勘定を済ませて店を出る。
さて、映画でもみようかと提案するが、時すでに遅し。
夕刻には腹をすかせた息子らが家に帰ってくる。
家内の門限が迫っているのだった。
それで風呂にでも入って帰ろうとなった。
検索すると美肌温泉あぐろの湯というのが近くにあった。
アグロガーデンという食材市場もあるので夕飯の買物もでき好都合。
湯を上がってクルマを走らせる。
阪神高速は魚崎を先頭に10kmもの渋滞であったが神戸市街の夜景を眺めつつであるから苦にならない。
外は冷えるが心身ポカポカ。
途中、ルミナリエのイルミネーションも見え昔話に花が咲いた。
子らがいて、その人数分だけ過去が奥行きを増しその人数分だけ未知も膨れ上がった。
この分だと、先々10年、時間世界は過去に未来にますます拡大していくことになる。
開けてびっくり玉手箱。
半時間も走れば家に着くが、おっかなびっくりの時間旅行はフィールドを拡張させながらまだまだ続くことになる。