あるメロディが唐突に頭に浮かんで懐かしくYouTubeで探し家内に送った。
『きかんしゃトーマス』のテーマである。
ある時期、長男が最も好んだサウンドだ。
彼が言葉を発し始める前のことである。
その音楽がはじまると彼はコミカルにカラダを動かし、そしてラストの部分では必ずおどけてみせた。
子どもの創意工夫には限りがあるが、ラストの決めのポーズを思案しつつ踊る様子が微笑ましく、時に紋切り型な着地となってもわたしたち夫婦は手を叩いて喜んだ。
耳にした回数は家内の方がはるかに多い。
『きかんしゃトーマス』のビデオをセットしおやつも用意し長男が画面に釘付けになっている隙に二男を風呂に入れる。
そんな早技をこなすための小道具として『きかんしゃトーマス』は重宝した。
振り返れば家内にとって子育ては寝ても覚めてもボール・ジャグリングの時間であったようなものと言える。
目を離せば何をするやらどこへ行くやら分からないやんちゃくれ二人に目を注ぎ続けることはたいへんな骨折りであったに違いない。
世には、雑でズボラな人がいて、マメで真面目な人がいる。
誰だって後者を装うくらいのことはできるので見分けることは簡単ではない。
シチュエーションが必要で、たとえば大勢で食事したときの後片付けのシーンなどで真相が明らかになる。
そっと姿を消す人やなんだか適当な人があり、その一方、率先して手際よく作業すすめる人がいる。
ハズレくじとアタリくじくらいの差はあって、雑でズボラであればその尻を拭うあいだ足踏みしなければならないが、マメで真面目であれば何かにつけどんどんゲインを重ねることができる。
子育てを見越したとき、息子らに対し後者を伴侶に選ぶべきだとどんなに強調してもし過ぎることにはならないだろう。
ところで昨夕、ホテルニューオータニにて長男の学年の懇親会が催され家内が参加した。
先生らと交流する機会が多く子を預ける身としてほんとうに心強い。
学校では先生方が目を注いでくれる。
全先生がマメで真面目。
だからあのやんちゃくれも曲りなり、いっぱしの男子へと成長することができた。
おまけにこれはというような力もついた。
石川五右衛門が斬鉄剣をかたわらにするように、長男は長男でこれはという武器を身に着けたようなものであり、その力を活かして彼は自身の未来を切り開いていくのだろう。
おれにはこれがある。
男子としてそのようなものが備われば僥倖。
『きかんしゃトーマス』の音楽はもはや彼の寸法には合わずBGMとならないが、いまも夫婦揃って手拍子うって決めのポーズの行方見守っていることには変わりがない。