この歳になってつくづく思う。
例えば、誰に雇われるかで幸不幸が決まる。
良き雇い主と出合うのとそうでない雇い主と出合うのと結果は大違いだが、しかし最初に判別などつき難く、知ったときには後の祭りということになる。
人を人とも思わないような人がまれにいる。
唖然とするが、いるのだから仕方がない。
そして人は環境に慣れ運命を受け入れ、劣悪をも日常としそれが普通と思い込み、逆もそうなのでかなり恵まれていてもそれが普通と思い込む。
が、いまやネットが普及し誰もがSNSのユーザーとなって、身を置く芝生の良し悪しについてその詳細を自ずと知ることになり、隣の芝生は青く盛られてまばゆく光りますます遠く離れて行くように見える。
この差はなんだ。
腹が立って仕方がない。
そう思う人が増えるのも致し方ないのかもしれない。
切り口は誰に雇われるか、だけに限らない。
誰と結婚したのか、どんな学校に入ったのか、もっと遡ればどこの国に生まれたのか、どんな才を持って誰のもとに生まれたのか、そんなこともすべて含めて運不運ということになる。
新聞を読めば、この世に運は限られて、「人生おみくじ」の中にはたっぷりとあらゆる不運が含まれていると分かる。
うちでは朝日新聞を取っている。
時間があれば朝、珈琲を飲みつつ、息子がそれら運不運について学ぶことができるよう記事を取り分けカバンの中に放り込む。
いつ何時、どんな目が出るか知れたものではない。
そんなとき、確かあんな話があった、こんな人もいた、そういった記憶がものを言うだろう。
記事が予習となって、ぶっつけ本番よりは多少は対処もしやすくなるはずだ。
これも親心。
大きな力には抗えない。
束になれば敵うこともあるのかもしれないが、奔流に晒されれば、たいていはひとたまりもない。
運不運があると知り、流れのなか大それたことは考えず、ほんの少しでもマシになるよう工夫の余地があるだけだろう。
嘆いても始まらず、人のことをとやかく言っても始まらず、人のせいにしたところで更にますます始まらない。
運不運の風下のもと、天は自ら助くる者を助くとの言葉を胸にできる範囲の努力を重ねて、あとは天のみぞ知るという話なのだろう。