夏間近、晴天の日曜。
地元の33期らと昼からBBQの予定であったが、急遽仕事が入ってわたし一人欠席せざるを得なくなった。
彼らの団欒のなかに交じる自分を想像しつつ机に向かい、家内は家内で芦屋にて開催のトルコマルシェに参加し各種ワインや料理など含めその場で憩う様子を写真で送ってくるので、わたしも休日のゆったりとした時間に揺蕩い、まるで仕事が楽しいかのように振る舞って作業を進めた。
夕刻になってようやく仕事が仕上がり、これでわたしにも正真正銘の日曜が訪れた。
ジムで走って風呂に寄る。
風呂を上がってもまだ外は明るい。
後は飲むだけだと幸福感に包まれていると親子連れが入ってきた。
子は3、4歳というところだろう。
風呂好きのちびっ子と見え、さっさと丸裸になって言った。
「パパ、先にお風呂入っていい?」
なんとかわいい。
我が子の小さい頃を思い出す。
その面影と重なるので、ちびっ子はすべてわたしにとってかわいい存在となる。
そして、同時に一抹の寂しさも覚えるのだった。
あんなに可愛かったのに。
かわいさが爆裂していたちびっ子当時の姿は、もはや思い出の中にしかない。
世が世だけに、他人の子を可愛がるにしても耽溺するのは憚られる。
つまり、孫が到来するまであの爆裂に触れることはできないということである。
それで合点がいった。
孫が可愛いのは子の可愛さの再現であるからであり、その爆裂の再現は、老境に差し掛かる身にとって人生最盛期の再来でもあって、すなわち不滅の夏がまた巡り来たといった、めくるめくような体験であるからそれはもう眩しくて当然だろう。
事務所近くの居酒屋のカウンターに居を定め、まだ見ぬ孫について思い巡らせつつ、まずはビールと声も高らかわたしは注文した。