帰宅すると服が待っていた。
まず真っ先、袖を通すよう家内に促された。
サイズがわたしに合えば、子らにもばっちりフィットする。
家内の目論見通り。
選んだすべてが申し分のないサイズであった。
この日家内は三田プレミアムアウトレットを訪れた。
息子らの服を選ぼうとラルフローレンの店に入ったところ、一緒に連れ立った隣家の奥さんがまるで店員さながら良い品を次々と見つけてくれた。
掘り出しものばかり。
しかも安い。
子らに似合う。
そう思えば、迷う理由はどこにもなかった。
収穫大の買物となり、子らの喜ぶ顔も思い浮かぶから家内はいたって上機嫌。
Smooth Radio LondonというFM局から懐かしの名曲がリビングに流れる。
わたしが試着し終えた服を手に、曲に合わせて家内が踊る。
バレエだろうか。
それがギャグに思えてわたしは笑った。
そのとき突如インターフォンが鳴った。
ささやか団欒の時間に、そこで終止符が打たれた。
宅急便屋がやってきた。
そうとばかり思っていたので、初老の女性の姿が門の向こうに見えたとき、わたしは少なからず戸惑った。
宗教の勧誘だろうか。
そう身構えるわたしに、女性は言った。
読売新聞の購読をお願いして回っております。
先日、朝日新聞の契約を更新したばかり。
その旨を告げ断るが、女性は簡単にはあきらめなかった。
そこを何とかお願いできないでしょうか。
朝日新聞との契約が切れる2年先の契約でも構いません。
読売新聞の購読を申し込んではいただけませんか。
こう見えてわたしは温情派。
困った風に見える人を捨て置けない。
助けてあげたい、喜ばせてあげたい、そんな気持ちが芽生え心のなか大勢を占めていくがしかし、やはり不要なものは不要。
読売新聞が配達されても手に取るとすればたまに載る嵐の一面広告くらいだろう。
後は料理の際の敷き紙としての用途があるくらい。
払う購読料は実質ドブに捨てるようなものとなる。
申し訳ありませんが2年先の約束はできません。
そう言って、わたしは彼女の申し出を丁寧に断った。
リビングに戻り家内に話す。
この界隈は文教地区。
子らへの国語教育の観点から朝日新聞を選択する世帯が圧倒的で、新聞自体を取らない時代趨勢のもと、ここで読売を売るのは至難だろう。
話せば話すほどその初老の女性の労苦が身にしみて、夫婦揃って気持ちが沈んだ。
日暮れ時、来る日も来る日も見知らぬ家のインターフォンを押し続け、要らぬと迷惑がられても頭を下げて頼み込むといったことはとてもわたしには真似できない。
訪れて喜ばれることなく嫌な顔をされ苦戦が続く。
結局は情に訴えるようなスタイルになり、自ずと卑屈になるから自尊心を保ち難い。
辛いことだとしか思えない。
たまたまわたしは新聞の契約を取らずとも暮らしていける。
ひとえに運。
数々の幸運が重なっただけのことであり、異なるめぐり合わせを生きていれば、わたしが彼女の立場であっても何ら不思議はない。
そう思うと胸が痛んだ。
いいものなら勝手に売れる。
たとえばラルフローレンの服を売るため、誰かがインターフォンを押すことはない。
売る側は待つだけ。
買いたい側がはるばる出かけ安ければ目の色を変え、先を競ってお金を払う。
ひとりでに売れる。
ぜひとも子らにはそちら側で暮らしてほしい。
何がそれを分けるのか。
チャールズ・ハンディが息子に言ったという言葉が頭に浮かぶ。
「雇われるのではなく、自らの顧客を見つけ出すこと」。
その精神を持ち続けて運が味方すれば、誰かのため嫌な役回りに甘んじずとも暮らしていけるのではないだろうか。