昨日の昼、長男から電話があり近況を聞いた。
勉強が面白い、というから思ったとおり。
勉強もしたいし留学もしたい。
やりたいことが多すぎて時間がない。
なるほど充実の学生生活。
悩める青春時代を過ごしたわたしとは大違いである。
わたしのボタンの掛け違いは、理系に進んだこと。
理系科目の出来栄えが承認欲求を満たしそれがプライドを形成したので、進路選択の際、迷うことはなかった。
が、大学生になってから誤りに気づくことになった。
興味ある分野に進んだつもりが学ぶ内容に全く関心が持てず、居場所に対する疑問も生じて虚しく、つまりアイデンティティの根幹が揺らいだ。
しかしせっかく大学に入ったのであるし、それはそれとしてまあまあまあと自身をなだめすかして卒業までこぎつけた。
そしてボタンの掛け違いを正すのに十年を要し、ようやくいま何も揺らがない。
子らについても算数が得意で数学もできる。
しかしその程度の出来栄えの者などそれこそ夥しい数にのぼって特異なことではなく、実社会においてそれで重宝され感謝される訳でもない。
せいぜいパズル的な問題がすらすら解けて謎がすばやく見抜ける程度。
つまり、時間無制限でがっぷり四つに対峙するといった局面においては誤差のようなものでしかないから、せいぜいお山の大将的な自負心を気取る程度の役にしか立たない。
そんなことより、読み書きができ英語が話せ歴史に詳しく、世辞に長け歌って踊れる方がはるかに役立つ。
人生の先輩として、そう断言できる。
だから、理系の何かに強く心惹きつけられるというのでなければ、同じ血を引くもの、不本意な道行きとならぬよう、関心領域を優先し文系もありとの選択で一向に構わない。
他の分野は誰かがカバーする。
例えば、いまや懐かしい長男のデビュー曲Sushi。
西大和の運動会でも流れた知る人ぞ知る名曲である。
わたしたち夫婦が焼鳥わびさびのカウンターで夕飯を食べている隙、うちの家でゲリラ的に撮影が敢行されたあのミュージックビデオで、息子の両脇を固めて踊った親友二人はいずれも最高峰クラスの大学を出て医者になる。
いやはや上には上がいて、それが友人であるなどなんと心強いことだろう。
最も親しい友だち二人が医者になるのだから、自身は他のことをやるほうが大物二人の補完も果たし得て、それでこそ共存共栄が果たせるというものだろう。
二男についても同じこと。
迷うことなく関心領域へと突っ走るのでいい。
さてところで、子らのことを書いたところで忘れぬうちに言っておかねばならない。
ある家族との付き合いを絶って、かれこれ数年。
そんな相手は世界広しといえど、そこ一組。
自分の家族が見下されたり軽んじられたり冷たく粗末に扱われたら、そんな相手とまともに付き合おうとは思わない。
だからいま家族ぐるみで行き来もなければ関わりもない。
今後も同じ、わたしからすればもはや他人以上の赤の他人、交流などあり得ない。
それが互いのため。
向こうもそう分かっているはずである。
にもかかわらず、親の頭越し、うちの子のSNSをフォローしたりメッセージを送るといったことは筋違いも甚だしいというものではないだろうか。
どこか道端ですれ違うようなとき会釈くらいはする。
それが人間の礼節であるから当然。
が、もう関係はないのだから、うちの家族の誰とも口を聞く必要はないはずだ。
金輪際、うちの子にメッセージを送るなどやめてもらいたい。