深い考えもなく理系に進んだのが運の尽き。
大学に入って適性のなさという壁にぶち当たった。
そもそも関心が持てない。
無味乾燥な内容をいやいや咀嚼する日々は苦行という他なかった。
なぜこんな過ちが生じたのか。
理由は簡単で、なまじっか理数ができたから、ということに尽きた。
数学ができる。
物理ができる。
そのことが進学校のなかにおいて自尊心を支え、自らの寄る辺となった。
結局、近視眼のままわたしは理系を選択し、やがて行き詰まることになった。
わたし程度の「できる」など、大局的に見れば、だから何なのだというレベルの話でしかなく、自身がそこに純粋な興味や価値を見出していた訳ではなかったから、大学に入ってから取り組む動機自体がなくなった。
しぶとくなんとか切り抜けたものの、もう懲り懲りという思いが強く、だから子らが文系を選択したときには、賛意を表した。
数学をはじめ理数科目にも長ける息子たちであったが、所詮そんな力は最優秀者集うなかにあっては等し並なものでしかなく、密集戦を制する決定打にはならない。
大事なのは関心。
子らは何の迷いもなく、そのことを十分に理解していた。
どのような場を生きるフィールドにするのか。
それが直感的に分かっているからだろう。
数々の場で積極的に交流を深め英語を鍛え本をよく読み勉強の手を抜かず、そして、スポーツにも励むというキャンパスライフを過ごしている。
わたしの過ちはわたし止まり。
わたし自身の新規まき直しをそこに見るような思いがして、心が晴れて実に清々しい。