先に着いたので店先に立って一人待つ。
耳にする音楽は『DANCE MONKEY』
まもなくエスカレーターに運ばれる二男の姿が見え、その後、家内も現れた。
三人揃ったところで店内に入る。
席に着き家内が肉を注文していく。
場所は梅田の但馬屋イーマ。
個室なので落ち着く。
二男の勉強場所に近く、勉強の合間ちょっと食事するのに最適の場所と言えた。
趣旨は来年の受験に向けての作戦会議。
幾つかの合意形成だけ行って10分ほどで話は完了。
あとは雑談。
端々、二男の友人らの話題となった。
あいつは賢い。
あいつも賢い。
そうそう、あいつだって賢い。
誰も彼もが賢いという話になって、わたしも口を挟む。
66期もそうであろうが33期だって同じ。
あいつも賢くこいつも賢くみんな賢く、こぞって賢い。
大人になってもそれを痛感し続け、皆が賢いものだから集まったときにはいったい誰が賢いのかとんと見当もつかないくらいであって頼もしい。
そういう意味で、大阪星光においては得られる繋がりこそが主産物で、そこで受ける教育の方は二の次、つまり副産物と言えるかもしれない。
店を出て二男の背中を見送って家内と一緒に帰途についた。
家に帰って家内が淹れてくれた烏龍茶を飲みつつ、プライムビデオ配信の『ビリギャル』を二人で観始めた。
学年最下位の女子が一念発起し慶應を目指し、見事現役合格を果たす。
そのストーリー自体がおもしろく夫婦で見入ったが、主人公の成長を最も強く後押ししたのは塾の先生というより母という点で家内と意見が一致した。
ああちゃんと娘に呼ばれるその母は、子の学費を捻出するためパートに出て必死に働き、しかし結果を求めるのではなく終始娘を温かく見守った。
山あり谷ありという苛酷な受験勉強の過程で、娘の心は何度も折れかかる。
なんとか持ちこたえ初志貫徹することができたのは娘を強靭な根のように支え続けた母の存在があったからだろう。
日曜の朝も家内とジムに励んで夜は焼肉を食べ体調万全。
引き続きこの日も幸せで、それは困ったことではないにも関わらず、あまり度が過ぎると今度はそれが失われてしまうことに焦点が結ばれ、一抹の虚しさのようなものも感じざるを得ない。
それがこの日、吹っ切れたように思えた。
幸福を享受するこの「わたし」が消えてなくなっても、たとえば子らがその幸福を引き継ぐのであれば幸福自体が失われるわけではない。
要は幸福がリレーされればいいわけで、そうであれば、自分の分が減ろうが無くなろうがどうでも構わない。
ああ、なるほど、と思う。
順々に謳歌する主体が変わるだけの話であり、後は野となれ山となれではなく、根になればいいのである。
といって根にも役得あってまんざらでもない気分だろうから、幸福の種類がまた変わっていくということなのだろう。
これまた先々、楽しみなことである。