午前中にジムを終え、家内はヨガのレッスンを受けに行くというのでわたしは事務所で仕事でもすることにした。
駅の階段をあがると前を親子連れが歩いていた。
幼い男の子が横を歩く母に言った。
「大阪と違ってここは静かで落ち着くなあ」
二人を追い越しざま振り返って少年の顔を見た。
見知らぬどこかのおじさんに「ウケた」と思ったのだろう。
彼は同じフレーズを繰り返した。
「大阪と違ってここは静かで落ち着くなあ」
確かにここらは大阪にない静けさに満ちている。
少し西に行けば夙川があり芦屋があり岡本があって御影があって更に静か。
そういった閑静な街並みに触れれば、「静けさ」が「豊かさ」と密接につながっていると少年は気づくことになるだろう。
土曜日の電車は人もまばらで空いていた。
大阪方面へと運ばれながら、この普通電車の行路がひとつの川の流れのように思えた。
山の手から下町に向かって、まるで上流から各地を順々に通って大海原大阪へと流れ込む。
朝の通勤ラッシュの光景を思い浮かべてみる。
様々な人で押し合いへし合いしていて、皆が一見均質に思えるが実は微細に差がある。
居住地が階層の基調をなして、資産や職業や学歴といった各自の事情によってその階層が再構成される。
電車に乗らなくてもいい層を別枠とし、同じ電車に乗るのであっても諸要素によって階層が細々と分かれて、実は誰もがその差異を知悉している。
一億総中流と言われた時代が長く続き日本人は階層といったものに無頓着に見えたが、SNSの普及によって現に存在する階層が透かし見え、階層に敏感に反応する日本人のスノビズム的メンタリティが浮き彫りとなった。
SNSを一度のぞけば、誰が上か下かを探り合い自らの寸法を少しでも大きくせんと熾烈などんぐりの背比べが繰り広げられている様が見て取れる。
一見、滑稽とも言えるが、皆があまりに必死なのでやがて悲しきといった感が拭えなくなってくる。
背比べであるから、人の不幸や窮地をも喜ぶといった卑しい心性もあらわとなって更に切ない。
が、犬が唸って吠え合うような獣的習性を残存させているのが人間なのだということを忘れてはならず、しかしそれでは不都合があって、そんなあさましい心情を咎めて抑えて人は進化し生き延びてきたとも知る必要があるだろう。
ひとつ上の次元から見渡せば、吠えない者こそ尊ぶべき人物であると分かるし、吠えられても相手にしないのが徳の備わった正しい在り方であるということが明快に理解できるだろう。
つまりは、静けさ。
分不相応にチグハグ踊ることがないよう、つまらないことで人を羨んだり、取るに足りないことで人を見下したりといったことがないようするには、何より静けさを保つこと、それが初手になる。
そして、その静けさが好縁をもたらし、ますます静かさが静かさを呼び、心はしんと心地よく静まり返ることになる。