こんな日記であっても言葉を選ぶ。
しかし、いつまで経ってもその選択が正確になされることはない。
言葉にしようと思った言葉以前のものは、ぴたり適した言葉には成り代わらず、書こうと思ったことと書かれたものには必ずズレが生じる。
何かを言葉で記したところで、言葉だけからその何かがそっくりそのまま再現されることはあり得ない。
つまり、書くときには一意であっても、読むとそれが多様な像を結ぶ。
コミュニケーションの道具として言葉は、いまだ不完全。
この非対称性からそう分かる。
相通じ合っている。
だから、そんな感覚は単なる思い込みと断ぜられるものなのだろう。
言葉は往々にして的を外す。
そんなツールを使って、おおまかな情報共有ならともかく認識が一対一に対応するとは考え難く、言葉を尽くせば尽くすほど意味が発散し、話が混線してしまう、という風になるのが自然な帰結であるように思える。
だから、国語は難しい。
正解に達するには、「一」が「多」へと様々な意味を増す不可逆な流れのなか、何が「一」であるのか感知し凝視する、研ぎ澄まされたような眼力が不可欠で、しかし、そこまで根を詰めて言葉を追っても、誰かの「一」と別の誰かの「一」が符号するとは限らない。
掴もうとしても掴みきれない、あのもどかしさ。
国語にはそんな感覚がつきまとう。