四連休最終日の朝も家内とともにジムに向かった。
さすがに疲れを感じたが、両者ともに根が真面目。
軽く流すどころか頑張ってしまい、午前中で精魂が尽きた。
疲れが勝って外出する気は萎えた。
小降りとは言えどのみち外は雨。
簡単に昼を済ませ、見るともなしドラマを見て、わたしはときおり本のページを繰った。
雨音が眠りへと意識を誘う。
起きているのか寝ているのか不分明な境界で船を漕ぎ、終始まどろむ午後となった。
この日も空腹が完全オフの時間に水を差した。
夕飯は福島のタイ料理屋。
そんな当初の予定などどこか遠くへ消え去って、近場でテイクアウトし済ませることにした。
取りに行くのはわたしの役目。
イルグラートで料理が出来上がるのを待っていると、長男から写メが届いた。
わたしの無様無防備な寝相がそこに写っていた。
さっき寝ていたとき家内がわたしを盗撮したのだった。
それを写メで長男に送り、東京にて長男により落書きが施され、そしてわたしがわたしの元に返ってきた。
その写真を見入って思う。
わたしとしては、うつらうつらしていたといった程度の認識。
が、写真を見れば、どこからどう見ても熟睡といった状態であった。
まさしく安眠。
たまにこんな休日もいいものだ。
心からそう思った。
赤ワインで乾杯し、家内が取り分けるのに任せて料理を口に運んでいった。
とてもおいしい。
長年地元に愛されるだけのことはある。
財布の紐が固いこの地域で生き残る店はすべて名店と言えた。
食事しながら、どういう訳か「親の背中の役割」について夫婦で語り合うことになった。
ものを言うのは、言葉それ自体では決してない。
むしろもの言わぬその行間こそがものを言う。
そんな話である。
たとえば、子に勉強しろと言ったところで、全く勉強と無縁でぶらぶらしている親の言葉であれば子には通じない。
努力が大事と言ったとしても、遊んでふらふらしているような親の言であればそこに説得力が宿るはずもない。
つまり、肝心なのは言葉より日頃の行動。
裏打ちされた行動が伴ってはじめて、言葉に生命が吹き込まれる。
原因と結果の話に似ているかもしれない。
言葉だけ、というのでは原因を作らず結果だけを求めるような行為も同然。
肝心の原因が疎かになったままであれば結果が変わる訳がない。
親の背中が子の大小を規定する。
もしそうだとすればわたしたちにはまだまだ不断の努力が欠かせない。
この連休で十分に休養が成った。
明日からまた頑張ろう。
互い注ぎ合ってワインはたちまち空になった。