朝食を食べさせ弁当を持たせ、二男を送り出した後、家内はジムへと向かう。
朝の9時、テレビ大阪で韓流ドラマが放送される。
それを見ながら速歩する。
雨降る火曜日、午前中を運動に充て、昼から事務所の手伝いに来る。
クルマを使うだろうから、帰りの助手席にはわたしが座る。
いつものパターン。
商店街で買物しわたしが荷を運び、家内が阪神高速をぶっ飛ばす。
料理を待つ間、風呂を沸かし、今日はビールを冷やしてあるからジョッキで乾杯することになる。
何度も繰り返されてきた日常が今日もまたひと巡りする。
ある種の力学的な調和が保たれているから、ということなのだろう。
思い浮かぶのは、真面目さ。
先日、家内が言った。
わたしたちは案外、真面目な部類に入るのでは。
休日も早起きし、午前中の早い時間には一日の用事が済んでいる。
少し遊べばほどよいところで胸の内で警笛が鳴って気がとがめ、勤勉の負荷をかけねば落ち着かない。
真面目に過ごすのが心地良い。
夫婦揃って心がそのようにチューニングされている。
だから誰からともなく、というよりたいていは家内の合図で、非日常の時間と遭遇してもたちまちのうち軌道修正がなされ、元の地味で静かな日々へと還っていくことになる。
その復元力が調和を保ち、調和を尊ぶから復元し難い状況には注意深くなる。
どれだけ楽しく面白いことであっても、ガヤガヤザワザワ感が尾を引くとすれば静穏な心に異変が生じる。
たとえば子らが小さい頃、遊ばせるなら自然に触れるアウトドアを心がけ、いくら手軽であっても人工的なアミューズメント施設を訪れることは滅多になかった。
掻き乱れると、戻るのは簡単ではない。
だから親が率先し、かような場所を連れ回すなど了見違いも甚だしく、その後で勉強でも強いようものなら子にとっては拷問とさえ言えるだろう。
地味で静かであっても噛めば噛むほど実は奥の奥では賑々しい。
その豊穣との連結によって家の秩序が形成されて、毎日毎日が平穏に過ぎていく。