帰りにちょいと一杯立ち寄った。
まずはキリンの瓶。
続いてアサヒ。
この二つの銘柄が日本の双璧。
ビールの代名詞として並び立つ。
だから飲む際は、両方に敬意を表して計二本飲むことになる。
一本だけでは文字通り片手落ち。
先攻めがキリンで後攻めがアサヒ。
両雄の表裏の攻防をじっくり味わってはじめてビールを飲んだと言えて、それで喉の渇きも癒えていく。
苦味懐かしいキリンに対し、スッキリとした喉越しのアサヒ。
どちらも美味しく、甲乙つけ難いこの拮抗が美しい。
三つ巴だと話が複雑に過ぎ、評価の対象として意識のうえに留め難い。
やはり一対で相対する姿に勝るものはない。
実力伯仲の時期は長くなく、その刹那のバランスにおいて双方が互いを更なる高みへと押し上げる。
そこでせめぎ合う力がしぶきとなってほとばしり、だからその対に視線が集まることになる。
家路についたとき、外はまだ明るかった。
電車に揺られドアにもたれて青空を見上げた。
流す音楽は「よくおごってくれる綺麗なお姉さん」のOST。
すべて素晴らしいが、なかでも「Save the last dance for me 」が特にいい。
歌うのがブルース・ウィルス。
よくもまあこんなドンピシャな選曲ができたものである。
このドラマ、第16話まではとてもよくできていた。
今年上期は「愛の不時着」と「梨泰院クラス」が韓流ドラマの二枚看板として話題をさらったが、「よくおごってくれる綺麗なお姉さん」も間違いなくそれらに続く良作と言えるだろう。
音楽が数々の場面を蘇らせる。
誰だってあんな恋愛のなかで過ごしたい。
いい歳をしたこの中年のおっさんが、そう思って空を眺めるのであるからドラマというのは恐ろしい。
風呂を済ませて食卓についたとき、幸福感が最高潮に達する。
なにしろ、あとはくつろぐだけ。
この日、食卓での最初の話題は新聞のこと。
家内が困った顔で言った。
届けられる新聞が二紙になり、そのせいでゴミの量が倍加した。
両者が相対すれば、拮抗するより大差つくのが、世の常。
隣町の一番と別の町の一番が戦えば、僅差となるより一方的な形で勝敗がつく、ということである。
それだけ拮抗は稀有な現象。
新聞も同様。
比較することでその良し悪しが明確となり、両方必要とはなり難い。
そう言えば隣家は新聞を取っていない。
そのことを思い出し、わたしは家内に言った。
不要な方の新聞を隣家に丸ごと献上すればいい。
これこそブレイクスルー。
われながら妙案を思いついたものである。
テレビで「サラメシ」が始まって、新聞の話はそこで終わった。
最近はNetflixなどばかり見て、テレビをほとんど見ない。
が、「サラメシ」だけは別だった。
紹介される家庭料理の数々が、家内が作ってきた料理と重なってなにやら深い感慨とともに我が家の歴史を振り返るような思いとなる。
食が暮らしの中心にあって、食が家族を繋ぎ合わせてきた。
物言わぬ食が雄弁に、ここに積み重なってきたコミュニケーションの全貌を思い起こさせ、毎回、愛情という言葉に行き着いて心が満ちるから、その味が忘れられずこの番組を欠かさず見ることになる。
まもなく二男が帰宅して、書いた小論文を見せてくれた。
一昨年、長男も同様に小論文を見せてくれたことを思い出す。
ここにも並び立つ拮抗が存在する。
兄と弟。
タイプは異なり有する力の種類も別であるが、どちらも魅力的な男であることに変わりはない。
なんと心頼もしいことだろう。
ふと思う。
もし、兄弟や姉妹で拮抗が成り立たず、優劣の差が激甚だったらどうなるのだろう。
親から注がれる肯定感に微妙な差を感じれば、なにせ子どものこと、心中穏やかではいられないだろう。
もし親がその胸のうちの不穏に気づかぬままだと、子は苦心するに違いない。
親からの承認を求め小ウソをついたり虚勢を張ったり、はたまた、無軌道に走ったりということも起こり得るかもしれない。
そして三つ子の魂百まで。
承認を得るため体得した行動様式は大人になっても変わらない。
大の大人になってまで承認欲求がいびつに肥大したままの人をたまにお見かけするが、その因果の元は親にあると言えるのかもしれない。
そうであればこれは本人よりも親の罪と言うことになるのだろう。