未来に思いを馳せる時間より、過去を懐かしむ時間の方がはるかに長い。
正宗屋のカウンターでひとり過ごしそう気づいた。
手にするiPhoneが過去への小窓を開く。
スクロールすれば、子らが小さかったあの当時に舞い戻ることができる。
当時は大変だった。
仕事の負荷は相当大きくしかし経済的には苦しく、若気の至りによって人間関係にも摩擦が生じがちでしんどく、日々暮らすだけで痛みを伴った。
辛く厳しく、涙なしには語れない時代であった。
しかし、いま思えば過去のこと。
それら痛みははるか彼方に消え去って、胸に押し留めた恨み辛みもとうの昔に賞味が切れて無毒と化した。
新型肺炎の脅威が迫るこの時節。
毎夜満杯の正宗屋であるが、金曜なのに客の入りはまばら。
そんな正宗屋の一隅で、くさくさ悩むことなくいいとこ取りで過去を回遊し、無事安全をことほいでビールを煽る。
大きくなっても子らは相変わらず可愛い。
が、昔は単に可愛いから、可愛いさの純度、凝縮度でいまを凌ぐ。
何か特殊なホルモンの作用なのだろう。
客観的に見れば、どこが?といった代物だと分かった上で、可愛いと思うから仕方がない。
忍苦の日々をなんとかこらえて持ちこたえ、すくすく子らは育ち、まもなく巣立つというところまで漕ぎ着けた。
自身の未来を夢見るいとまなどなかったから、根はロマンチストであるとは思うものの、これまでずっとリアリストであることを余儀なくされた。
いまこの地点から糸を垂らして過去に滑り降り、自身の未来ではなく各所から子らの未来を思い描く。
そのように、味わい損ねた自身のロマンを子に置き換えて反芻する時間が一番たのしい。
自身の未来にあまり関心がない。
もしかたら役目を終えつつあるという兆しなのかもしれない。
それはそれで本望。
無痛となった過去を振り返れば、いいことだらけ。
幸せをほしいままにしてきたようなものである。
子らを社会へと送り出し、親をきちんと見送れば、あとは思い残すことなど何もない。