雨が小降りになったのを見計らって家内と買い物に出た。
天気予報によればこの先もずっと雨であり、所により災害級の雨量になるとのこと。
物騒なことをニュースは告げるが、見渡す街に不穏な気配はどこにもない。
続いてコロナについてのニュースとなった。
地域での取り組みが紹介され、マイクを向けられ喋っている医師は33期の池尻くんだった。
その面影は昔と同じ。
池尻くんは訪問診療でのコロナ患者への対応を語り、わたしは中高時代の池尻くんについて家内に語った。
話して気づく。
33期の面々は多かれ少なかれ各自固有の伝説を有していて、6年という歳月を通じその伝説が皆に共有されている。
語られる演目はいついつまでも褪せることがない。
スーパーマルナカの屋内駐車場にクルマを停めたとき、池尻くんのインタビューが終わった。
マルナカは果物の品揃えが充実している。
だからまず果物を各種選び、充実の度に合わせ順々に肉と魚を選び、最後にその他必需の品を買い揃えた。
買物を終え、その足で夕飯を済まそうと芦屋に向けクルマを走らせた。
午後6時過ぎ、土山人には空席があった。
わたしは無印良品、家内はユニクロ。
部屋着のまま着席した。
はじめて土山人を訪れたのは、よく晴れた春の日曜日のことだった。
当時わたしたちは大阪市内の下町に暮らしていて、長男はバギーに鎮座しわたしたちに随行した。
今より一品一品の値段が高かったのではないだろうか。
記憶するところ、蕎麦1枚の値段が千数百円はしたように思う。
かつ、そんな値段なのに1枚の量が驚くほど少量で、大人は2枚頼むのが標準仕様のようであった。
よそ者はそんなことを知る訳がなく眼前にする1枚の少量に夫婦して驚き、かといって2枚目を奮発できるほどの経済的な余裕はなく、どことなく惨めでこっ恥ずかしい思いを余儀なくされた。
長男が見せる無邪気な笑顔だけがその場での救いだった。
今となっては懐かしい。
わたしちたちにとって、一杯のかけそば的なエピソードと言えばこれになる。
長男に続いてまもなく我が家に二男が合流し、幼稚園の劇で長男が王様の役に抜擢された頃からだろうか、いろいろなことが上向いていった。
住むところが何より絶対に重要。
サル同然の二人を育てる過程で家内がそう確信し、長男が小学生になる直前、西宮に引っ越した。
そして二男が小学生になるときに合わせ、借家を出ていまの場所に居を構えた。
西宮を選んだことは、西宮にとっては迷惑なことだったかもしれないが、うちにとっては正解だった。
子らは環境から良き影響を受け、サルがヒトへと変貌していく日々、わたしたちは心穏やかに暮らすことができた。
振り返ればすべてひっくるめて、子らが率いる二頭立ての馬車に運ばれた結果としか言いようがない。
そんな話を家内としつつ蕎麦を味わい、もちろんわれら下々の民、その足元は揺らがない。
芦屋を訪れる度、懐具合、おつむの程度、所作振る舞いなど、埋めようのない彼我の差を思い知らされ、初心に返ることができる。
先日は東京を訪れ、上には上がいるということも目の当たりにし、ますます自身の立ち位置への理解を深めることができた。
このデフレ化にあって、東京は更に豊かになっているように思えた。
わたしが東京に暮らしていた30年前とは見違えた。
そう言えば、この30年で地域ごとの経済事情は様変わりしていった。
関西圏は軒並み大きく脱落し、壮年男子の所得中央値が500万円を超えるのはいまや首都圏に愛知を加えた5県のみとなった。
日本全体で緩やかに沈みつつ、地域間で大きく差が開き、同時に地域内でも差が開く。
そのように、随所で格差に拍車がかかる。
息子らはそんなネガティブなダイナミズムを教えられずとも察知して上京していったのかもしれない。
そうだとすれば下々であったからこそ宿った感覚と言え、それは不甲斐ないわたしのおかげであったのだと自慢していいように思える。