午後、ぶらりと実家に寄った。
差し入れが美味しかったと父が言う。
それを聞けば家内が喜ぶ。
張り切ってもっといろいろと作るに違いない。
料理について言葉を交わし、互い笑って顔を見合わせた。
そのとき、一瞬の沈黙が訪れた。
双方の頭に浮かんだのは母の手料理であったはずで、その思い出が二人の間を行き過ぎる間、一切言葉は差し挟まれなかった。
コロナによって人との関わりが二極化した。
続いて父がそんな話をした。
疎遠だった人とは無縁も同然となり、一方、身近な人間とのやりとりは増えた。
濃淡が曖昧だった人間関係が、画然と「有」か「無」に二分されたようなものであり、一掴みの縁だけが残って、あとは消え去った。
父の話を聞いて、わたしは自分の身に置き換えて考えてみた。
女房がいて息子がいて友人らがいて、そのほか仕事しているから種々の事業主との良好な関係が続いている。
その「濃」だけで居心地よく、「淡」は以前から視野の外でありそれで困ることは何もなかった。
つまり、ハナからわたしは養分過多とも言うべき偏った人間関係のなかに置かれているのだった。
しかし、現時点では豊か賑やかなそれら「濃」な関係も、やがては否応なく二つに引き裂かれていく。
晩年も押し詰まった頃、わたしにとっての「有」は父と同様、数限られているのだろう。
時間は有限。
特にこの先はさほど長くない。
感謝の念をもってしみじみと振り返ることのできる登場人物は、いまの時点で既に出尽くしている。
今更ながら、そう気づいた。