神戸からの帰途、電車が新在家を通り過ぎた。
近くにある六甲灘温泉のことがふと頭をよぎった。
二男の行きつけの風呂屋である。
彼はよほど気に入っていたのだろう。
始発で行くこともあったし、部活帰りに友だちと連れ立つこともあった。
電車に揺られつつ、風呂につかってくつろぐ二男の姿が目に浮かび、わたしまでとても気持ちが安らいだ。
ほどなくして電車が住吉駅に差し掛かった。
ラグビーの練習場がこの近くにあり、高校生だった長男を乗せてしばしば通った。
学校を終え疲れているからクルマの後部シートで彼は寝入って、そんな寝顔をミラー越しに眺めて練習場へと送り届けたことが懐かしい。
そんな長男の昔の面影が車窓の向こうにほの見えて、自然と頬がほっこり緩んだ。
息子たちとはいま離れて暮らしている。
が、いつだってこんな感じで二人のことが目に浮かび、それで心が満たされる。
これは家内も同じだろう。
数々の山を越え幾つもの海を渡りといった風に家族四人で過ごしてきた。
だからこのつながりは確かなもので、そんなつながりがあるというのが奇跡に思える。
そしてわたしには父がいて、父と母を同じくする弟と二人の妹がいて、甥っ子がいて姪っ子がいる。
これがいまわたしにとっての家族の現在と言えるだろう。
それに加えて友人たちがいる。
単に同じ学校で過ごしたというだけでなく、この歳になれば親を見送り、子を育て、ちびっ子当時とは比較にならぬような親近感と共感を覚えるようになった。
言わば合わせ鏡のようなものであり、親を思い子を愛する気持ちが相通じ、だから友だちの子たちも可愛く思えて仕方がない。
更に付け足せば日々付き合うお客さんにも恵まれた。
よきお客さんの紹介を通じてよきお客さんが現れる。
この好循環でどれだけわたしは助かっていることだろう。
見渡せば、中には疎遠となったり絶縁状態となった関係もなくはない。
しかし、ほぼすべてと言っていいくらい、ほとんどの関係が良好に保たれ良き作用を及ぼし合っている。
喜びばかりがあって、人に苦しめられることがない。
これはこれでかなり素晴らしいことであると言っていいのだろう。