今にも降り出しそうな曇天が朝から続き、夕闇が迫っていよいよ雨となった。
傘を持たぬまま駅を出て、アーケードを伝った。
足は商店街の焼肉屋へと吸い込まれていった。
仕事で遅くなるので夕飯は不要。
そう家内には伝えてあった。
「駅前なので来る?」と家内にメッセージを送ったが、焼肉は気が進まないとの返信をみて一人で肉を焼き始めた。
その昔、ぶらり立ち寄るとすれば和食屋が多く、もっぱら刺し身をあてにビールを飲んだ。
いまや体質が変わった。
やはり鍛えているからだろう。
カラダは何かにつけて肉を求める。
息子たちが肉を好む理由について、いまではカラダで理解が及ぶ。
この日の昼も少しばかり肉を焼いた。
実家に立ち寄った際は、事務所へと戻る道中、鶴橋駅で降りて冷麺を食べる。
母が他界してからの習慣で、わたしのなかに母がいるから、実家からの帰り道、母の好きなものを昼食に選ぶのはとても自然なことで、冷麺を食べるのであればついでに肉を焼くのもこれまた自然なことだろう。
月日が経つのはほんとうに早い。
来月にはもう三回忌となる。
その話もあってこの日、実家を訪れたのだった。
法事を昼にするか夜にするか。
父と意見が分かれた。
反論されると昔気質の頑固者であるから感情が先行し、感情が先行すると話が極端へと動く。
怒気の混じった父の言葉に意味はない。
数々の実践的な経験を通じてわたしは学んだ。
だからいちいち反応しては無駄骨になるだけで、わざわざ意味を拾って下手に呼応すればますますあさっての方向へと話が過激に逸れていく。
人間関係の遮断は、たいていこういったやりとりに端を発する。
過剰にたかぶって、後にはひけず、結局、行き来がなくなる。
相手が自分の「外」にある存在であれば、それでいいのかもしれない。
しかし、父はわたしにとって「内」の存在であって、切っても切れない。
明確な部外者であれば切れて困ることなく、後腐れ感が尾を引くこともないだろう。
が、父はわたしという構成のなか、代替者のない唯一無二の存在としてわたしのなかに存在する。
つまり、広義の自分であって、いわば一心同体。
意見の相違も長所も短所もぜんぶひっくるめて自分の話なのであるから、対立するより包摂する、つまり受け入れるのが自然ということになる。
わたしは落ち着き払って対応し、だから話は次第、冷静に推移し、互い譲歩し今回は夜、来年以降は昼というところで落ち着いた。
内と外という話で言えば、これは家族についても当然にあてはまる。
女房も息子も、自分のなかの内なる存在。
ぜんぶひっくるめて自分であって、決して「外」ではあり得ない。
だから家族についてはすべてが自分事ということになる。
そういえば以前、どなたかが孫について、こっちは「内孫」、そっちは「外孫」などと言っていた。
孫などひとり残らず分け隔てなく「内」だと思うが、そんな考え方もあるのだろう。
しかし単なる区分も一人歩きし、思いがけず心理的な距離を生むであろうから安易な区分も良し悪しと思える。
花見のピークはとっくに過ぎて、しかも雨。
先日訪れた際は満員だったが、この夜はわたしの他に客はなかった。
聞けばこんな客の入りの日は今までにないことだという。
ほどよい照明が心を落ち着け快適。
まるで貸切状態で、注文すればすぐに給仕してもらえて至れり尽くせり。
まるで自室にいるかのような居心地の良さを感じた。
もちろん肉はどれもかなりの美味しさで、赤身もホルモンも次から次へと申し分なく、お酒も種々楽しんで、だからわたしは落ち着き払ったように見え、内では大はしゃぎ歓喜していた。